Linuxからアホ話まで、何でもありでござる
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2007年07月01日

若者がうまく働けないのは昔からだよ

[うんちくん]
若者はなぜうまく働けないのか? (内田樹の研究室)

多分、書かれていることは正しいんだろうな。だけど何か引っかかる。それは「俺だってそうだったんだよ」という思いかな。

そもそも、うまく働けない若者って増えているのか? 俺はうまくは働けない若者が増えているんじゃなく、うまく働けるようになるまで待つ仕事場が減っただけじゃないかと思う。全然データとかは無くてあくまで俺の感覚的な話だけど、昔の方がおかしな会社や上司が多かったような気がする。頑固、偏屈、見下し…そして下っ端の社員なんて、とんでもなくぞんざいに扱われていたと記憶しているのだけどもな。ぞんざいに扱われることで傷をなめあう集団もできやすかったと見え、ストレス発散的な人のつながりは今よりずっとあったと思う。そしてその頭の中はモジュール化とか集団でのルールとか小難しい事じゃなくて、単に「いまに見ていろ僕だって」だったような気がする。

「俺は冷や飯を食わされている」ってのは、がんばったという意識が少しでもある奴は誰でも持つ思いであって、特段いまの若者に限った話じゃない。少し話はそれるが、きちんと評価されないことを理由に仕事を辞めたいと思う奴はどんどん辞めればいい。もしかしたら他の会社に貴様の求めているものがあるかもしれない。だけど、あまりにおかしな会社ならいざ知らず、いまの会社で認められない奴は他に行ったって認められるとは思えない。成功する奴はどこに行ってもそれなりに出来るものだ。

ただ、いまは昔と違って、転職はしやすくネガティブなイメージもない。その上何もできなくても教えられた通りに作業をこなすだけで金がもらえる仕事も多い。そんな環境も手伝って、安易に職を変える奴が増えているだけなのかもしれない。まぁ「誰でもできる」ことをやっていて人から評価されるわけはないのだけどな。

先日、俺の仕事に対し「あなたがいなくなったら業務に支障がでるようでは困る」みたいなことを言った人がいた。確かにこの人のおっしゃるとおりなんだが、この人が理解していないのは、俺の仕事を人に教えても多分理解できないし、アウトソーシングしたらものすごくコストがかかることは間違いないということだ。つまり、今の段階でその仕事は俺にしかできないんだよ、多分。コストパフォーマンスから言っても俺に任せておいた方がいいし、そもそも代わりはいないことに気がついていないんだな。こう言うと仕事を抱えこんで離さない馬鹿野郎みたいに思われるかも知れないけれど、誰か代わりがいたら仕事を委譲してまったく構わないと思っている。というか、疲れるから誰かに代わってほしいくらい。

裏を返せば、俺にしかできないということが少し問題にされる程、とりあえず存在感はあるということだ。邪魔と思う奴もいるだろうから存在価値とはあえて言うまい。しかし、うまく働けなかった俺だって、とりあえず今ではそれなりなポジションにいる。それは当然俺自身がやってきた事でもあるが、先輩や上司などの環境に恵まれた面も大きい。というか、俺の面倒を見てくれてた人がいたからこそ今があるのだと思っている。だから、「若者がうまく働けない」というまるでその責任のほとんどが当事者にあるような言いかたは適切じゃなく、うまく働けない若者の面倒をみなくなったと言うべきじゃないかと思うのだが、如何だろうか。

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2007年06月05日

ブログにおける過度体裁愛好症について

[うんちくん]
みなさんは過度体裁愛好症を知っているだろうか。詳しくはユーザの過度体裁愛好症を読んでもらいたいのだけれど、要は情報の内容よりも出力帳票の体裁にこだわってしまう事をいう。この記事がアップされたのは2005年のことで、そのころはどちらかといえばビジネスの帳票についての話であった。俺もこの記事を2005年06月ころに知り、過度体裁愛好症なるエントリをアップしている。

世界のBlogの4割が集中していると言われる日本においては、この過度体裁愛好症を患っているBlogユーザが非常に多いように思う。MovableType、WordpressやNucleusなどのブログツールと比較しても、大手の無料ブログサービスは文字装飾関係に異常と思える程力を入れているようだ。それはそれなりのニーズがあるからに他ならない。

文字を大きくし目立つ色をつける。それはエントリにアクセントを付けるテクニックとしては有効であるが、多用するべきテクニックとは思えないのだがどうか。

CSS(Cascading Style Sheets)を使ってサイトを表示させる大きな理由はサイトに統一性をもたせるためなはずで、統一性を持たせるためにはフォントサイズ、フォントカラーなどの制限が必要不可欠である。それなのに嗚呼それなのにそれなのに、なぜそんなに色を使いサイズを変えたがるのか理解できない。

また、異様に感嘆符が多かったり「…」を多用して哀愁文体にしているサイトも多い。こういうサイトはなぜか異常に改行が多いという特徴も併せ持っているようである。また、こういうサイトのエントリは得てして内容も無いようだがそれにはあえて言及しない。改行が多い文章は読みにくくてしかたないのだが何故そんなに改行するのだろうか。

その上、ぐちゃぐちゃにバナーを貼りぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃにアフェリエイトを貼りぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃに「クリックしてね」ばかり書いてあるサイトは、「続きを読む」でクリックしなきゃ全てを読めないエントリがあるだけでもうんざりする俺の理解の範囲から完全に逸脱している。

いくら個人のブログが「俺様ブログ」であっても、もう少し冷静になって自分のサイトを見つめ直す事も必要なんじゃないかと思う。

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2007年06月04日

赤にしますか?それとも白?

[うんちくん]
ディーゼル車に灯油を入れる奴が増えているらしい。

J-CAST ニュース : 灯油を入れる車が多発 都が「不正」監視要請

実はこの話、トラック関係者なら「今さらなに言ってんだよ」って話だと思う。トラックの運転手だったら絶対知ってるはずだ。昔聞いた話だと、ガソリンスタンドによっては「赤にしますか?それとも白?」と言ってくるところもあるようだ。いうまでもなく「赤」は軽油で「白」は灯油だ。

上記記事ではメーカの広報から
一般論でいえば、燃料タンク周りにあるゴム類の部品や金属を溶かす可能性があり、燃焼温度が高くなってエンジンに負担をかけるのは確実。また排ガスにも悪影響が出る
という見解が掲載されているが、トラックの運転手から聞いた話では「灯油も軽油も変わらない」ということだった。成分的にも灯油と軽油はあまり差が無いと聞いたこともあるが、これは定かでは無い。

また、軽油は凍るらしく、気温の低い地方と気温の高い地方で売られている軽油は凝固点が違うという話も聞いた事がある。長距離トラックが温かいところで入れた軽油のままで寒冷地に来た場合、軽油が凍って動かなくなることがあるらしい。だから、温かいところから出発する長距離トラックは、寒冷地に向かう途中で凝固点の高い軽油を使いきって凝固点が低い軽油を給油するよう計算して走るとのことである。一方灯油は通常の範囲であればまず凍ることは無い。だから、寒冷地で寒い時期に販売されている軽油は非常に灯油に近いものなのではないかと勝手に推測してたのだが、実際そのようだ

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2007年05月16日

SNSで地方活性化は無理

[うんちくん]
先日TVを見ていたら、NHKで「SNSで地方活性化」なんて事を言っている解説員がいた。この解説員は、本気でこんなこと思っているのだろうか。俺の想定している地方都市と、この解説員の想定は違うかもしれない。それでも俺は無理だと思う。

SNSが注目を浴びた頃、確かにこういう話はあった。さっと検索してみると、こんな記事が出ていたようだ。
SNSで地域活性化、可能性と課題を探る
SNSは新たな地域活性化ツールとして有望だ
SNSは地域活性化の起爆剤になるか? 地域SNS実証実験を考える

ホームページが世に出てきたころ、これと同じような事が起きたのを覚えている方はいないだろうか。SNSと通常のホームページで何が違うかといえば、多少双方向通信的なしくみが備わったというだけだ。もっと古くは、たしか大分のあたりで地域を巻き込んだ「コアラ」という有名な草の根BBSがあったはずだ。草の根BBSは、今のSNSに究めて近いような気がする。だが、草の根BBSはどこかに行ってしまった。

現状をよく見てほしい。SNSで非常に小さなコミュニティを維持していくことは出来るかもしれない。だけれども、それが物理的距離が短く人数も少ないであろうと想定される関係で維持できるのか。もっとわかりやすく言えば、携帯のメールや音声でコミュニケーション出来るくらいのレベルで、SNSなんて使う人がいるのかということだ。まずこれが1つめ。

それから、非常に根本的な問題として、発信すべき情報が地方にあるのかという事がある。話題というものは、人間や企業などの数に累加的に比例して増えるものだろう。人が少ないところには話題も少ないのである。そんな少ない話題で、SNSが成り立つのか。井戸端会議レベルであれば、それこそメールや電話でいいではないか。これが2つめ。

3つめとして、今のSNSなどは、一般の人にとってはまだまだめんどくさいツールだということだ。地域のコミュニケーションを重視するのであれば、情報発信の手順を非常に簡単なものにする必要があるように思う。ただでさえ少ない情報なのに、発信する人がいなとなれば死んだも同然だろう。

大きく欠落しているのは、「何が目的で、誰が誰のためにやるの?」という大前提だ。mixiが流行ったことをSNSの成功として見てはいけないと思う。mixiから有益な情報が発信されたなんて、俺は聞いたことが無い。出てくるのは会員数大幅増の話題とその後のネガティブな話題だけではなかったか。これで成功と言えるのか。

くり返しになるが、そもそもSNSは会員数が少なくては機能しないはずだ。それなのにSNSで地域活性と言われても、俺の頭のなかには疑問符しか出てこないのだが、如何か。

多分、このSNSなどに絡めて金を動かそうとしている奴がいるに違いない。箱物はヤバいから、こういったソフトやITインフラに金を使いたいのだと思う。公共事業はこういったものに形を変えていくのだろう。さすが資本主義的社会主義国家だな。

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2007年04月30日

勘弁してほしいコピペだけのサイト

[うんちくん]
最近、ちょっと気になった話題をGoogleなどで検索しヒットしたサイトに行ってみると、どこかの新聞サイトの記事とか話題になっている元ネタがそのままコピペしてあり愕然とすることが多くなってきた。

新聞系のサイトの記事は、閲覧できる期間が異常に短く、リンクを張っておいてもあっというまにリンク切れになることは多い。だからコピペして保存しておくというのもわからないではない。しかし、俺が知りたいのは、そのような話題に対してどのような考えを持っているのかであって、その記事そのものでは無い。何故なら、その記事や話題を読んで検索をかけることがほとんどで、記事自体は既読ということが多いからだ。

だから、コピペオンリーサイトに行ってしまった時は失望感が大きい。

一ヶ所だけならまだしも、そんなサイトに数箇所出くわしたときなど、星一徹ばりのちゃぶ台返しをしたくなる衝動にかられてしまう。

検索エンジンの記事の抜粋部分で判断できるという意見もあるだろうが、その後に何か書かれているんじゃないかと期待してクリックする。しかし、大抵はコピペ100%もしくはコピペにたった数行の、まるでコメントもどきの事しか書いていないものがほとんどだ。なんのためにそんなエントリをアップするのか、理解できないでいる。コピペだけのエントリなど、無理してアップする必要はないと思うのだが如何か。

それから、はてなアンテナもどきのリンクだけのエントリもよく見かける。個人的な情報収集のツールとして使っているのかもしれないが、SEO対策のためだけという感じがするサイトも多い。

そんなサイトがあまりに目に付くため、Yahoo!検索、結果からブログを除く機能「ブログフィルタ」が追加されたりしてしまうのだろう。

誰にでも「俺の話を聞いてくれ」という欲求は多少なりともあるだろう。それがサイトを開く動機のひとつになっている人は多いと思う。そしてサイトを開いてみたが、思った以上に訪問者が来ないのはよくある話だ。確かにサイト訪問者が少ないのは寂しい。自分の努力が全く報われないような無力感に襲われるのは確かだ。そしてそのうち更新頻度がサイトアクセス数アップに連動することに気がつき、エントリの鬼になる人もいるのだろう。そういう人は、自分の意見を誰かに知ってほしいという欲求が、いつのまにか単なるアクセス数アップという目的に変化してしまっている事に気がついているのだろうか。意味の無いエントリばかりでは、なんのためにサイトを開いているのかわからないではないか。

ブログペットの自動書き込みが多いサイトはかなり減ってきたように思うが、コピペだけ、リンクだけのサイトもブログペットの自動書き込みに勝るとも劣らないと思う。

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2007年03月29日

聞いていてハズカシイぞ

[うんちくん]
昨日、電車に乗っていたときの話。俺の近くにいたおやじが、なにやら得意気にとなりの女性に話しかけている。声が比較的大きくやかましい。声がでかいので、聞きたくなくても話の内容が耳にとびこんでくる。

そのおやじは結構歳がいっている感じだが、まるで女を口説くように一生懸命講釈をたれている。どうやら車酔いについて話しているようだ。
オヤジ「人間は前に進むように出来ているから、電車などで進行方向と逆向きに座ると酔い易いんです。」
女性 「そうなんですか」
オヤジ「それから、自分で運転しているときは感覚と動きが一致するから酔わないんですよ。だから乗せられている人は酔い易いんです。」
おい、オヤジ、違うぞ。車酔いのメカニズムを知らないのに、へんな講釈たれないでくれ。

普通前向きにしか乗っていない人が後向きに乗ったりするから酔うのであって、後向き=酔い易い じゃない。車を運転している人が酔わないというのも違う。

車酔いというのは、脳が二つの相反する情報で混乱することから起こるんだよ。人間は移動するとき、視覚からの情報と三半規管から来る情報を重ね合わせて自分の位置や移動速度を判断するわけ。その情報を脳が記憶していて、その経験から来る状態の判断と、車などに乗ったときに入ってくる情報から判断される情報が食い違っているから車酔いが起こるんだよ、わかるかオヤジ。

これを実感できるのが、QuakeやDOOMなどの一人称シューティングゲーム。映像では移動している情報が視覚から入ってくるんだけど、三半規管からは移動しているという情報は入ってこない。その情報の食い違いに脳が混乱して、3D酔いが起こるんだよ。

だから、その経験則が出来ていない幼児は車に絶対酔わない。経験則が出来上がってくる年頃から車に酔い易くなるのはそのためなんだね。

よって、運転している人が車に酔わないというのも当然間違い。俺は運転していて車酔いしたことだって結構ある。車が変わったり、夜間や雨の日などで視界が変わったりすると酔ったりするし、バイクでヘルメットを変えたとき、シールドを通した視界が変わったりすると酔ったりするもんね。バイクでも酔うんだよ、マジで。

この脳の混乱は、ちょっと睡眠をとって脳をリセットしてやると直る。車に酔わないようにするためには、その乗物に乗ったときの情報を脳に覚えさせるしかないわけだよ。

あと、あのオヤジ、喉が渇いたからといって水分を取ることと、その水分が細胞に入るのとは違うなんてアンビリーバボーなことも言っていたな。運動の後は電解質を取るのがよくて、みそ汁なんかもいいみたいな。人体の浸透圧より高いものを採り入れても、逆に水分が不足するんですけれど。

そういうメカニズムを理解していないでへんな講釈たれないで、お願いだから。

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2007年03月22日

クリックしてねはうざったい

[うんちくん]
結構なサイトで「応援お願いします」とか「クリックしてね」とか「ポチっとな」とか書いてあるのだけれど、はっきり言ってうざったい。

クリック数をカウントするなんらかのランキングとかに参加していてのことなんだろうが、クリックしたって有益な情報が得られるわけではないし、もっと言えばオタクのランキングは俺には何ら関係ない。ランキングを上げたい、人をもっと集めたいというサイト管理者の自己満足を満たすためのことを、訪問者に要請するのはどんなもんだろうと思う。

極論をすれば、「クリックしてね」精神は、「無断リンクお断り」だとか「気に入らないコメントは削除します」だとか「コメントくれたらうれしいな」だとかみたいな精神に通づるものがあるんじゃないかと思う。

ブログやHPを持つということは、基本的に誰が来ても拒むことは出来ないと言うことを承諾していることであろう。また、書いてあることに対し読み手がどんな感想を持とうとそれは読み手の勝手だ。こちらの思っていることなんて、文章だけでは半分も伝えきれるものではない。それを少しでも補う手段としてコメントやTBを使えばよいのであって、スパムの様な迷惑千万以外の制限は出来るだけ行わないようにした方がいいように思う。

そうは言っても、星の数ほどあるサイトの中で自分がどのくらいに位置しているのか計測したい気持ちもよくわかる。これだって、表示してもらっただけでカウントしてくれるタイプのものはたくさんある。わざわざ来てもらった人に必要以上の手間をかけてもらわなくてもいいのではないか。

こんな事を思ったのも、かなり前から登録してあるBlogPeopleBlogPeople ReviewMe!なるものを始めたことを知ったからだ。これは
* リンクリストの配信回数
* BlogPeople内に表示されているあなたのサイトへのリンクのクリック数(トラックバック・ピープルなど)
* ユーザのリンクリストからのクリック数
* あなたのブログ内に設置したランキング投票バナーのクリック数
* あなたのブログ内に設置した「BlogPeople ReviewMe!」レーダーグラフの配信数およびクリック数
* 「BlogPeople ReviewMe!」でレビューされた回数
* 「BlogPeople ReviewMe!」であなたが書いたレビューの数
から算出されるようなのだが、この評価の中にクリック数というのがかなり入っているのである。

そもそも、なんの目的でアクセス数を増やしたいのか、よく考えた方がいいと思う。それがもし自分のモチベーションアップがほとんどを占めるのであれば、訪問者に強要するような手段は出来るだけ避けた方が賢明ではないのか。一時期的に書いている内容以上に訪問者が増えても、それは物理的に存在している店とかと同じで、いつかはそのサイト(店)の持つ実力に落ち着いてしまうものだ。

このサイトもそうだが、大してアクセス数が無いところは一日ちょっと訪問者が増えただけでランキングが大きく変動する。一般的なランキングの一番悪い点は、ランキング自体が相対的な評価であることだ。絶対的な数値も理解していないと、相対的な数字だけで一喜一憂することになってしまう。

ランキングは、その使いかたによって自分のサイトの長所や短所を分析することに役立つことも多い。しかしそのランキングに踊らされては本末転倒も甚だしい。

ま、ここまであれこれ書いておいてなんだけど、ついでだからこのサイトのBlogPeople ReviewMe!でも貼っておきますか。

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2007年03月09日

ファイル作成時のデータ喪失を防ぐ対策はないのか

[うんちくん]
パソコンを使っていてよく耳にするのが、保存する前に何かやらかしてしまってデータが消えちゃったという話。

なんでこういうことが起こるのか。

その大きな原因は、新規文書とか新規なんたらとかと言ったテンポラリなファイルをメモリ上に開き、ある程度作業が進んでから改めてファイル名を付けて保存するという順番にあると思う。データベースはこの作成順番が逆で、まず始めにデータを確保する場所やファイル名みたいなものを決め、その後でデータを入れていく。俺の記憶だと、昔のコンピュータはまず始めにファイル名を決めて、その後にそのファイルに書いていったような気がする。もちろんその逆も出来たけど、手順としてはまず書き込むところを決めてやるのが普通だったように思う。

データベースの場合、データは入力されるたびにHDなどに物理的に記録されていくし、その記録の状況も記録していくから不慮の事態に強い。それに対し、他のファイルは、ファイル作成の順番が逆になったことによって、まず最初にメモリ上に展開しなければならなくなってしまったわけ。アクシデントや作業のミス一瞬にして消えてしまうメモリ上に展開するのだから、消えたら跡形も無くなるのは当然だ。

だけど、これくらいPCのパワーが上がり、価格もこなれた今、なんで通常のファイルもDBのように処理しないのかとても不思議。例えば、不揮発性のメモリを搭載してRAMDiskにしておき、新規文書などを作成したら入力した情報をそのままRAMDiskに書き込んでいくことだって全く問題なく出来るんじゃないのか。ちょっとしたプログラムを噛ませるだけで実現できそうな感じがするけど、どうなのかな。こんなプログラム、もうあるのかもしれないね。

まぁ、これはキーロガーみたいになってしまうので、セキュリティ上に問題があるといえなくもないけれど、入力していたメールが消えたとか、保存する前に閉じちゃったとか、そういったつまらないケアレスミスのリカバリに費される時間は思っている以上に大きい。その上、ケアレスミスを起こす人はパソコン操作自体もそんなに得意としていない人が多いわけで、ただでさえ不得意で時間のかかる人がますますパソコン操作に時間を取られるというのは無駄以外の何物でもないだろう。パソコンが得意な人は得意な人で、不得手な人に比べると扱うデータ量が多いんじゃないかと思う。その大量のデータが消えるのはこれまた無駄以外の何物でもない。

こういうつまらないけどよく起こるケアレスミス対策って、なんで進まないんだろうね。おかしいよね。

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2007年03月08日

不幸思考回路の排除 その2

[うんちくん]
不幸思考回路の排除 その1の続き

よく人は「愛されたい」とか言うが、これとて先の猫の例と同じことだ。

ある人から愛されているか否は、対象となる人物の言動・行動などで判断することになるのだが、対象人物が本当に愛しているかどうかを知るすべはない。本当のところはその対象になる人物本人しかわからない。だから人は不安になって言葉とか行動とかでその愛を確かめるのだろうが、その言動や行動が本心からのものなのか、偽りなのかを確かめる方法なども、同じように存在しない。それはその対象になる人物にしかわからないことだ。

よって、「愛されているか否か」は、その対象人物が本当に愛しているか否かで決まる事ではない。自分が愛されているという自分の思いを信じることが出来れば、それはその人にとって「愛されている」ことであり、信じることが出来なければ、対象人物が本当にその人を愛していても「愛されていない」ことになるのだ。

つまり、対象人物から「愛されている」か否かは大した問題ではなく、その対象人物から愛されていると信じることが出来るかがもっとも重要なことなのである。

これは、つまるところ「自分を信じることができるか否か」ということにたどり着く。「信じるものは救われる」という言葉があるが、多分本当の意味は「自分を信じるものは自分を救うことが出来る」ということではないかと思う。

かといって、何の疑いも持たずに信用出来る人はまずいない。疑惑が晴れるからこそ、より信用できるとも言える。詐欺師やニセ科学、怪しげな宗教などは、その猜疑心をくすぐり、そして疑惑を晴らす術に長けている。信じ込ませることがうまいのだろう。その怪しげなものを信じることは、つまりは自分を信じることである。自分を信じられずに不安な日々を送っていた人は自分を信じることの心地よさを知り、ますます傾注してしまう。

非常に自分に都合のいいことしか信じられない人もいる。どんなに都合のいいことも信用できない人もいる。あまり疑いの念を持たず、たやすく信用する人もいるだろう。その度合いは疑うことと信じることのバランスポイントがどこにあるのかで決まる。疑うことも含めて自分を信用できるかどうか、それが重要なのだ。

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20代のPC離れと言えるのか(数字のマジック)補足

[うんちくん]
先日20代のPC離れと言えるのか(数字のマジック)というエントリをあげたんだけど、あげた後にデータの解釈が違うじゃんと気がつきました。ああそれなのに20代にデジタルデバイド なの?とかにも取り上げられちゃってちょっと恥ずかしいね。

そのまま「アホな男」ということで済ませてもいいんだけど、一応補足しときます。

まずあのエントリは、「構成比だけでは、調査対象の実数によってはこんなにイメージがちがうんだよー」というつもりでアップしたつもりだったんだけど、余計な感情が入り込んだりよく吟味しないままあげたもんで、読みかえしてみるとそのあたりがうまく表現されていませんね。

架空のデータですが、家庭のPCからWEBを利用している人の実数を2パターン作ってみました。

パターン1 あのグラフから想像されるイメージ
パターン1 データ
パターン1 データ(PDF)
これを人数のグラフにすると…
パターン1 人数グラフ
パターン1 人数グラフ(PDF)
構成比のグラフでは…
パターン1 構成比グラフ
パターン1 構成比グラフ(PDF)

あのグラフからは、20代の利用者がもっともっと減少しているように感じるかも知れませんね。

パターン2
 えー、これで20代の家庭のPCからWEBを利用している人が減っているっていうの?
パターン2 データ
パターン2 データ(PDF)
これを人数のグラフにすると…
パターン2 人数グラフ
パターン2 人数グラフ(PDF)
がーん、人数増えてるじゃん。
だけどこれを構成比に変えると…
パターン2 構成比グラフ
パターン2 人数グラフ(PDF)
あらら、パターン1 構成比グラフとおんなじに見えますね。

こんなこと改めて言う必要もないようなくだらん話なんですが、こういう積み上げグラフにすると出展元のグラフが与えるイメージとはあまりに違いませんか?つか、あんなグラフの作り方、見たことないです。

まぁ、つまるところ数字ってのは作り手によってうまい具合に変えられちゃうんだからよく見なきゃだめだよってことが言いたかっただけ。

しかし、下流か否か――携帯厨とPC厨
2ちゃんねるでは最近、「携帯厨」「PC厨」という言葉で、携帯ユーザーとPCユーザーの対立が顕著になりつつあるようです。以前「2ちゃんねるのPVはすでに3割が携帯電話経由」と聞いていましたが、2ちゃんねるなどでは、すでに、携帯電話ユーザーの情報リテラシー、ネットリテラシーがPCに比べて非常に低いことが問題になっていました。
なんてことが載っていますが、これっていつかどこかで聞いたことがあるような話ですねぇ。

昔々草の根BBSとかPCVANとかNiftyServe(あえてNiftyとは書きません)とかでも新参者に対しては厳しかったところもあったようですし、メーリングリストなんかではOE使用者に多かった全文引用を咎める文章とかも多かったですしね。情報リテラシー、ネットリテラシーがPCに比べて非常に低いというよりも、全然知らない人が携帯から大挙押し寄せているだけで、Windowsの普及でネット利用者が莫大に増加した時にも同じ現象が見られましたよね。そんなレベルの話でしょ、多分。こういう問題が起こることで、逆にいろいろよくなる可能性の方が高いんじゃないのかなぁ。

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2007年03月04日

不幸思考回路の排除 その1

[うんちくん]
俺は「癒される」という言葉が嫌いだ。バカじゃないのとさえ思ってしまう。外的影響によって、人間が癒されるということはあり得ないからだ。

人間の感情は「脳」が司っている。脳が「Good」と感じる信号を生成すれば心地よくなり、「Bad」な信号を生成すれば不快となるのであって、外的要因が直接脳の中に入り込んでくるわけではない。

すこし話をわかりやすくするため、ペットを例にとって考えてみよう。

うちにも猫が2匹いるが、家族はみんなその猫たちから好かれていると思っている。それは多分当たっているのではないかと思いたいが、本当のところは誰にも判らない。「猫に好かれている」と思うのは、猫の行動やしぐさで「自分は猫に好かれている」と勝手に判断しているだけなのだ。その判断にしても、今までの自分の経験を元に「猫に好かれている」と判断しているだけで、その前提が正しいのかどうかさえ判らない。本当のところは猫にしか判らず、結局は自分が「猫に好かれている」と信じているだけに過ぎないのだ。

対人関係については、人間は言葉を使うので少々複雑になるが、根本的にはペットの場合と変わらない。ただ、人間の場合本心とは別の言葉を使うことも出来る。また、行動や表情、しぐさなども本心とは別の装いも出来る。その情報を受け取った人が判断することだけがその人にとっての真実で、情報を発信している側の意図は全く関係が無い。

つまり、「癒される」なんてことは実際は有り得ず、自分が自分を癒しているだけなのだ。ある情報が心地よくなれる情報であると自分で決め、その情報を受け取っているだけに過ぎない。脳が心地よくなれる信号を発することが出来る情報はどんなものなのか、自分が決めているのだ。

不幸思考回路の排除 その2へ続く

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2007年02月18日

理系と文系についてのうんちく

[うんちくん]
先日とある身内のブログで、理系と文系について述べられておりました。ま、俺のことなんだけど。

そこにある通り、一般的にみたら俺は超理系です。あるときに性格診断テストを受けたことがありましたが、俺の診断はまるでマシーン。オマエはほぼコンピュータだと言わんばかりの診断結果で、さすがの俺も少なからずショックを受けた記憶があります。

さて、理系・文系の根本的な話に立ち帰りますと、理系と文系の違いとはなんだってことがあります。これはWikipediaによりますと、学問分野を区分する場合、
文系とは主に、人間の行動や思考が何らかの形で関わった現象についての学問であり、理系とはそれらを含む自然科学全般を、実証的に研究する学問
ということらしいのですが、世間一般の感じかたはちょっと違うような気がします。

世間一般では、「理系」は数字や機械に強く理屈っぽい人を指し、それ以外が「文系」と位置づけているような気がします。で、簡単にふたつに分けたがります。
イメージ図
image1

みなさんこんな感じで白黒はっきりつけたがるんでニセ科学なんかが幅を効かせちゃうのですが、本来はこのように二分化されるような簡単なものでは無く、ある場面では究めて理系的だが違う場面では文系的ってこともあるわけです。そういう場合はどうなんだなんて考えると夜も眠れなくなってしまうのですが、ある人が理系かそうでないかは場面場面での理系度文系度の強さを全て合計し、全体で理系文系それぞれの持つ要素のどちらが強いかを漠然と判断しているものと思われます。
イメージ図
image2
この図のような中で、どの位の位置にいるかという判断を極めて主観的に判断していることになります。

しかし、世間一般で「理系」の特徴はとても具体的にあげられることが多いのですが、文系についての特徴はあまり聞いたことがありません。これは何を意味しているのかというと、世間一般のイメージとしては上記イメージ図のような分布では無く、文系という母集団の中に理系が存在していると捉えていいでしょう。
イメージ図
image3

この構造こそが「理系」が「文系」を軽んじてしまう大きな原因であります。理系から見れば文系のアドバンテージはあまり無く、文系はそのアドバンテージを「これだから理系は」の一言で片付けられてしまうことが非常に多いのも事実です。

何事も計測したがるのが理系です。20世紀の大発見に相対性理論がありますが、あの理論も全ては光のスピードありきから始まっているように、物事を一定の物差しで客観的に計測していくことは非常に大事なことです。理系の思考回路は「この物差を使えばこういうふうに計測できる」で、その物差は比較的客観的・普遍的ななものが多いように思います。また、当然ながら違う物差で計った場合、結果が違うこともよく分かっています。方や文系はどうかというと、物差の目盛が時と場合によって自在に変化しながらも同じ物差で計っているつもりになっているということが多いような気がします。

昔、アルバイトに「それ何個ある?」と聞いたら「1、2、3…たくさんあります!」と答えが帰ってきて唖然とさせられたことがありますが、俺はこの会話に理系VS文系が凝縮されているのではないかと思えるのですけどどうですか?

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2007年02月11日

グラフや統計に惑わされるな

[うんちくん]
高木浩光@自宅の日記 - 日常化するNHKの捏造棒グラフ

こういうグラフなどで目眩ましを狙うのは、企業なんかではよくある手口。実際俺も会社の資料なんかでこういう手を使うことがある。自分でも使うので、こういうグラフみたいなものはパッと見で判断しないクセがついちゃってる。

惑わされないようにするためのポイントは、まず単位と縦軸、横軸などの目盛を良く見ることが第一で、その次はどこから持ってきたデータなのかがきちんと明記されているかだと思う。

また、こういった統計データを表す場合、当然のことながらデータの母集団に偏りがないかというのは、見せかた以前にものすごく重要なことだ。例えば、ネットでアンケートを取ったりした場合は、当然ながらその母集団は「パソコンや携帯でインターネットにアクセス出来る人」になってしまうわけで、その母集団に「あなたはインターネットでホームページを見ることがありますか?」なんて質問は、質問する意味さえない。だけどそのようなまやかしデータを使ってさもありなんみたいに書かれているものは結構多い。

また、統計のマジックには「平均」がある。たとえば、日本の平均所得は600万とかいう話もあるけど、その中には平均を大きく引き上げている超リッチマンも含まれているわけで、一般的な所得層はデータの中央値や最頻度値を見なければよくわからない。ちなみに日本人の所得の最頻度値は300万を切るくらいだったような気がする。つまり一般的な人は300万前後の所得の人が多いわけで、決して600万貰っている人が普通じゃないのである。その上、何をもって一般的というかという根本的な問題もあるのだ。

このような目眩ましを使うのは、当然ではあるがなんらかの結論が先にあり、架空の事実を客観的に見せるふりをしてその結論に到達させるために他ならない。こんな手法をマスコミが多用するのは如何なものかと思う。そんなのは報道とは言えず、世論操作と言うべきものではないだろうか。

しかし、こういう手法にみんながだまされやすいのも確かなことで、これは俗に言う「ニセ科学」を信じてしまう思考パターンと同じ。まん延するニセ科学と、対峙する科学者たちもいるみたいなんだけど、信じたいことをさも科学的根拠があるみたいに言われると、どうしても信じてしまう人が出てくる。それがあるある捏造などをもたらしたと言ってもいいんじゃないのかな。オウムも根っこは同じだけどね。そう考えると日本人は全然進歩してないんだね。

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2007年02月07日

ニコニコ動画(β)の面白さはどこにあるのか

[うんちくん]
ニコニコ動画(β)が話題騒然だ。いってみるとわかるが、なるほど面白い。「面白くないものが面白くなる」 ひろゆき氏が語る「ニコニコ動画」の価値という記事にひろゆき氏のインタビューを交えたニコニコ動画についての記事が載っているが、それを読むと思わず膝を打ってしまう。

バラエティ番組でテロップが多用されるようになったのも、音と映像の他に文字でもインパクトを与えることが出来るからであろう。最初にTVでテロップを多用した番組はブラックワイドショーあたりではなかったかと思う(多分違う)。今ではテロップ無しでは物足りない感じがするくらい一般的な手法になった。

面白Flashの中に、結婚式スピーチ「中村屋」というのがあるが、ニコニコ動画はこれに近いものを即興で作れてしまうから面白くないわけがない。動画だけで笑えるのにPeCa bio hazard highlightみたいなのがあるが、この叫び声などが画面にそのまま文字で出てくるようなものだ。

PeCa bio hazard highlight 2


PeCa bio hazard highlight 3


誰でもついTVなどにツッコミを入れてしまうが、それが多数の人間から行われるわけだ。画面がコメントで埋まってしまう時などもうたまらんって感じである。

だけど、俺のLinuxだとフォントの設定がアレでFlashPlayerの文字がでないんだよね。
orz

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2007年02月01日

物が「見える」ということ

[うんちくん]
先日いやでも物理が面白くなる—交通信号「止まれ」はなぜどこの国でも赤なのか?って本を買ったんだけれども、その中でものすごく気になる話が出ていた。

その話と言うのは、「光は電磁波の一種であるが、その中でも可視光線というのは電磁波の中でもかなり狭い範囲のものであるにもかかわらず、自然界に存在する全てのものが可視光線で認識できる物体であることはとても不思議である。」というような趣旨のものだ。言われてみればものすごく不思議だ。

何が不思議なんだと思う人もいるかも知れないので、もう少し掘り下げて考えてみよう。

まず物が見えると言うのはどういう事なのかというと、物体から反射された可視光線で網膜が刺激され、その信号を脳で認識するという事だ。可視光線が全く反射されずに吸収されれば、それは黒く見える。また、可視光線全てが通過してしまったら、その物体は「見えない」のだ。しかし、今のことろ自然界には「見えない」けれど「物体がある」ものは存在していないようだ。

人間が見ることの出来ない電磁波のみを反射し、それ以外を通過させてしまう物体は自然界には無いみたいなのだよ。もしこんな物体があったら大変である。人はその物体の存在を認知できず、そのくせその物体は存在する。突然それが空から降ってきて脳天を直撃しても、人は何がぶつかったのか全くわからない。逆に、見えるけれど存在しない物体というのもなさそうである。

これを不思議と言わずしてなんと言おう。

だけれども、この世は人間の脳が作り上げたイメージだという話も一方ではあるわけで、あなたの見ている世界と俺の見ている世界は、本当は違うのかも知れないんだよね。

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