先日
メインマシン昇天かというエントリに、Isettaさんがこんなコメントをくれた。コメントを否定するような内容なんで申し訳ないが、どうしても薀蓄たれたくなった。Isettaさんが気分を害されませぬようお願い申し申し。そのコメントはこれ。
>今まで熱中していたものをほったらかしにして違うものに熱中すると、大体前のやつが機嫌を損ねたみたいな状態になる。
そうですよね、分かります。
私もそういうの、良くあります。
モノにも感情がある、ということなんですねぇ…。
こういうことってよくあるように感じるし、その時不思議と「物にも感情があるのかも」なんて思ってしまう。しかし、物には感情などないのである。
超理系の俺には「物に感情がある」なんてことは受け入れ難く、これはまさに
水からの伝言と同じレベルの話にしか聞こえない。というか、そもそも「感情」は脳のような組織・機能を持たないものには存在しない。道端に転がっている石ころに感情があるかと聞いたら、かなりの人は「ない」と答えるだろう。それがなぜか多少複雑な構造を持った物などになると、その物に「感情」のような物を感じる人は少なくない。これはなぜか。
物に感情があるように思える時にはパターンがある。一つ目はその物が「使い込んでいる」か「大事なもの」であること。二つ目は可動部分があるか消耗される部分があることである。で、その「感情」であるが、それは「物の調子」を感情に置き換えて考えてしまう。物の調子が悪くなってくると、なぜか人は物が「怒・哀」のいずれかの感情を持ったように感じ、逆に調子がよければ「喜・楽」を感じてしまう。これは「老い」と「劣化」を同系列として感じているからに他ならない。自分で書いておいてアレだが、人が
今まで熱中していたものをほったらかしにして違うものに熱中すると、大体前のやつが機嫌を損ねたみたいな状態になるのには、上記の事柄が見事に融合しあって印象に残っているだけなのである。
大切な物は大体こんなサイクルで壊れないようになっている。
物を大事にしている → その物は使い込まれていて少々古い → 大事なのでメンテナンスは十分に行っているし、よく使うので大きな不調はない → 不調になったらすぐ直す → 最初にもどる
で、熱中するものがこのサイクルの中に割り込んでくると
大事にしているがいじらなくなる → 使わなくなると軸受けなどのグリスが固まったり気にならなかった消耗部分の劣化が気になりだして一気に不調になる → 大事にしていたのに壊れるとは不届き千万 → かわいさ余って憎さ百倍キーッ
となってしまう。ムカつくせいかヤケに印象に残るのである。それだけでなく、その物から少し離れることによって「痘痕もえくぼ」だったものが痘痕にしか見えなくなるのだ。かくして、新しい彼女にお熱を上げている野郎に昔の彼女が擦り寄ってきてもウザいだけ、というような状況に陥るのである。例えが全然的確ではないがそんなものだ。もうそろそろダメだなと感じているから違うものに走るという深層心理も忘れちゃいけないかもしれん。
いずれにせよ、
今まで熱中していたものをほったらかしにして違うものに熱中すると、大体前のやつが機嫌を損ねたみたいな状態になるのは必然であって偶然ではない。しかし、そこには感情などは一切存在せず、ただ単に物が不調になって当たり前のことを自分がしているだけなのだ。