Linuxからアホ話まで、何でもありでござる
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2008年10月13日

こんにゃくゼリー問題で自分の立ち位置を確認する

[うんちくん]
こんにゃくゼリーの話が香ばしかった。今はかなり鎮静化しているように感じるので、そろそろ一言蘊蓄たれておく。

今回のこんにゃくゼリー製造中止に対する意見は、大きく分けて
こんにゃくゼリーの論理破綻 - タケルンバ卿日記

こんにゃくゼリー製造中止は論理的に正しい - 飽きたら消すよ。
という2つに分類されるのでは無いかと思う。簡単に分けちゃえば「こんにゃくゼリー発売中止はおかしい」と「発売中止もやむなし」だ。どちらの意見も納得する面があり、どっちが正しいかはわからない。

さて、なぜどちらの意見にも納得してしまうのだろうか。それはいうまでもない、前提条件が違うからだ。

少々異質な例えとして、企業での経費削減対策で考えてみよう。企業の経費対策で良く聞く話に「紙の使用量を減らす」というやつがある。ただ、紙の使用量なんて、経費額全体からみたらそんなにバカ高いものではないはずだ。大きく経費を削減しようと思ったら、そんなことにしゃかりきになるより額の大きな経費に手を付けた方が効果は出しやすい。

しかし、紙の使用量を削減することに意味が無いのかといえば、そんなことはない。額としては少ないかもしれないが、必ず効果はでるだろう。また、実際の経済的効果の他に、具体的な事例に具体的に取り組む事での意識の変化や広報的な効果などの2次的な効果も見込めるかもしれない。

ここで話をこんにゃくゼリーに戻そう。この件がなぜ問題になったかといえば、現象面からだけ言えば「喉につまらせて死者が出た」ことが発端だ。その解決策は「死者を出さない」ようにすることが大前提である。その「死者を出さない」という前提に、「こんにゃくゼリーで」という条件を付けるのか付けないのかで解決策が変わってくるのは当り前の話だ。もっと極端に言えば「喉に物を詰まらせて死ぬ人」をマクロ的に見るかミクロ的に見るのかの違いでしかない。

それだけの違いで、なぜここまで盛り上がるのか。それはその意見が自分のスタンスを表しているからだ。その説明には、以前理系と文系についてのうんちくで使った図がちょうどいいのでそのまま使ってみる。
image2
この図で、理系を「こんにゃくゼリー発売中止はおかしい派」、文系を「発売中止もやむなし派」としてみよう。自分がどっちの意見にどの程度賛同できるかをこの図にプロットしてみればいい。その位置が、自分がこの問題をどの程度マクロ的に見ているかを表しているのである。もっと突っ込んで考えれば、なぜ自分はそのスタンスなのかを考えてみると面白いかもしれない。

というか、自分がどの色に見えようが、それは自分のかけているメガネのせいなのだよ。わかるかな?わかるよね。自分のメガネは他人と違うことを自覚して他人の意見をを読めば、それはもう「なるほどなぁ」と納得するしかないのだが、それを理解できていない人の意見は、端から見ると思わず( ´,_ゝ`)プッ となってしまう事が多い。声を大にして騒ぐのは、そこに何か意図があるから。自分の利権が絡んでいたりという直接的な意図から、自分の意見を認めてもらいたいという自己顕示欲・自己満足などなどだね。はてブコメとかで良くみるパターンかも知れんね。

なにごともそうだが、人間の決めたルールに「絶対に正しいこと」など存在しない。こんにゃくゼリーの例のように、どの位置の考えを持った人間が多いのか、いや、一番声のデカい奴がいるポジションが一般的には正しいこととされることを忘れちゃいけないと思う。おっと、これは余計な話だな。

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2008年10月07日

めんつゆの希釈がよくわからない

[うんちくん]
市販の「めんつゆ」はストレートタイプもあるが、そのほとんどがLHAやZIPで圧縮され濃縮されたスタイルで販売されている。

濃縮することで運搬時の重量は軽減され、塩分濃度も上がるので品質保持時間も長くなるなど、それなりにいいことが多い「濃縮」であるが、希釈の説明を読むと毎度毎度少々混乱する。

例えばここに2倍希釈のめんつゆがあったとしよう。この2倍とは一体何に対して2倍なのか。めんつゆ原液を1とした場合、希釈する水の量を2倍にするのか、はたまた希釈して出来上がっためんつゆが原液の2倍になっていると言う意味なのか、ここで俺はいつも混乱する。2倍希釈といえば通常は後者の事を指すらしいのだが、俺はどうしても「2倍の水で希釈」という思考から抜け出せないのだ。だって、基準となる「めんつゆ」が1だったら、水が2で・・・だろ。

めんつゆでの話で「非合理だなー」と思うことがもうひとつ。濃縮度合が高いめんつゆの場合、めんつゆより希釈する水の量の方が多い。この場合、水を最初に用意してその中にめんつゆを入れれば労力が少なくなる可能性が高い。しかし、しかしである。めんつゆを作るときはどういうわけかまず「たれ」の分量を計り希釈用容器に入れ、そのあと「よいしょっ」とジジィ臭いかけ声を発しながら水を加えてしまう。水を先に容器に入れた後でめんつゆを加えたほうが効率がよかったのに・・・と後で思うのだが、いざ作るときになるとそんなことどこ吹く風となってしまうのは理系の人々としてものすごく恥ずかしいのだが、どうか。

そんなの考えるのは俺だけか。OTL

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2008年09月18日

サイゼリアの凄さは発想とかじゃない

[うんちくん]
TBS|がっちりマンデー!!で、サイゼリアが取り上げられた模様。そのユニークさが話題になっているようだ。実際俺の回りでも「サイゼリアの番組見たか?」なんて話が出たりしている。

■サイゼリヤがすげーw

俺はこの番組は見ていないが、サイトを見るとその番組の内容がほぼ載っているようだ。読んでみると確かにユニークと言えなくもない。

しかし、特にびっくりする内容ではないのも確かだ。効率を上げていこうとすれば必ず出てくる考えだろう。サイゼリアの凄い点は、その考えをシステム化し実際のオペレーションに落し込んでしまっている点だ。

そもそも効率を上げるということは、その大部分を「省く」という選択が占めてしまう。その「省く」段階で、「これを省いたら○○では無くなってしまう」とか「●●はこうであるべき」といった変なこだわりが出てきて頓挫してしまうことが多い。味へのこだわり、品質へのこだわり、ブランドとしてのこだわり・・・俺はこの「こだわり」によって効率化提案がつぶされていく様を何度も見てきた。「こだわり」にかこつけて効率化=変化をつぶしにかかってくる輩も多い。それをはね除けピュアに効率アップをはかる姿は、フードサービス業界では異質にさえ見えてしまう。

また、全てをパターン化して行く場合には、宣伝による売上変動もないほうが良いのも事実だ。そもそも宣伝なんて麻薬のようなもので、一度宣伝をしてしまうとやらずにいられなくなる。費用対効果も定かでないのに宣伝を止めたときの落ち込みを恐れ、宣伝をする。それは広告代理店等を潤すことにしかなっていないのに、である。トータルとして宣伝しない方が効率が上がるのであれば、広告など必要はない。非常に理にかなっている。しかし、この事業規模でそれを実践できる者はなかなかいない。それを実際にやってしまうのがすごいのだ。

サイゼリアおそるべし。

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2008年07月26日

捨てることと考えないことは違う

[うんちくん]
いずれもネタっぽいが、ふーんだけで終われなかったのでちょっと書いておこう。

「相手にこう思われたらどうしよう」を、捨てよう。 - GoTheDistance

元ネタはこちら
発言を額面どおりに受け取る - タケルンバ卿日記
* 「空気を読むのはやめましょう」
* 「行間を読むのはやめましょう」
* 「言外のことを読むのはやめましょう」

これを「3つの読まない」と申します。「非読宣言」です。私たち「社交辞令が効かない会」は読みません。そのままです。シンプルでストレートな関係の構築を目指しておりますので、言葉とか表情などの表に出てくる要素以外のものは、一切読みません。逆な言い方をすれば、表に出てこないものは無視します。ないモノとして扱います。シンプルでストレートな関係に、存在するかしないかすらわからないものを持ち込まれても困ります。
発言を額面どおりに受け取る - タケルンバ卿日記
言わんとしていることは理解できなくはない。確かに書かれてもいない行間を読んで騒ぐ奴とか、意味不明の思い込みをぶつけてくる奴とかを見ると辟易する。だが、タイトルにも書いたとおり、捨てることと考えないこととは根本的に違う。

物事に動じない人は、得てして上記3つのポイントを抑えているように見える。ただしそれはあくまで表面上の話である。なぜ物事に動じないのか、それは経験値とそれに順ずる仮想経験値が高いからである。要は、あらゆることが「想定内」だから動じないのである。それはあらゆる事態を想定し、また、想定したにもかかわらず起こった「想定外」を乗り越えてきたことによって培われてきた経験値だ。上記3項目を額面どおり受け取って実践すれば、その貴重な経験値、特に仮想経験が失われていくのは自明の理だ。

しかし、知らないほうがよかったと思うときもあるのも事実だ。しかしそれは単に精神的なダメージやストレスを感じるからなのである。そもそも言葉を額面どおりに受け取るためには、その言葉のバックグラウンドをいろいろ想定することが必要不可欠で、また、よく理解して解釈しないと今後の対策は立てられない。もっと具体的に言えば、なにも考えないで額面どおりの言葉を理解できるはずなどないのだ。何も考えずに額面どおりに受け取るだけでは、将来受けるかもしれないストレスのショックアブソーバをもてずに結局はより強いストレスを感じてしまうことになるだろう。

この話は、たとえば「明日地球が爆発する」ということを知らずにいたほうが幸せなのか?という類の話である。知らずにそのときになって大きなショックを受けるのと、知っていてその最後のときまで恐怖におびえながら過ごすのと、どちらが幸せだろう。知らない方がいいというのであれば何も言うことはない。空気を読み、行間を読み、言外のことを読んであらゆる事態を想定しつつ、額面どおりの受け答えをするのが賢者の選択ではないのか。

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2008年07月14日

エコという名の宗教

[うんちくん]
最近とみにエコエコやかましい。俺にはなにが「エコロジー」なのかさっぱりわからない。環境に優しいとか良くいうが、どうなれば優しいと言うんだか全く理解できない。基準もないのによく「優しい」とか言えるもんだと感心する。

例えば、環境に優しいエネルギーとか言って「化石燃料」から「バイオエタノール」へ切替えるとか騒いでいる人達がいるようだが、「環境」に対する影響を小さくするためには「使わない」のが一番よろしい。この一番効果的な「使わない」という部分には全く触れず、今までどおりバカバカ使って利便性は確保したいけれど環境に対する影響は出来る限り小さくしたい、なんて虫のいい話が通るかバカ。

例えとしてはあまりふさわしくないかもしれないが、金が無い奴に車は買えない。車を使わない奴にはガソリンの高騰もバイオエタノールも全く関係ないのだ。本気で「エコ」を考えるのであれば、日が暮れたら活動しないとか石油燃料は販売しないとか、数世紀前の生活まで戻してしまうのが一番効果があるはず。だけどそんな状態にまで戻したくもないし戻れやない。

環境が破壊されバランスが狂う・・・見たいな話も良く聞く。これもものすごく誤解を招くいい方だ。氷河期など現在と大きく環境が違った状態でも、多分そのなかではきちんとバランスが取れていたはずである。つまり、環境が変化してもその変化に合わせてバランスを保っているだけなのだ。だからバランスが崩れているという表現はまったくもっておかしい。

二酸化炭素+温暖化だってそうだ。二酸化炭素がそこそこあって気温が上昇し、そこに水と日光と多少の養分があれば、それは植物にとって天国じゃないのか。植物が増えれば二酸化炭素は分解されて二酸化炭素は減るんじゃないのか?なんでそうならないのか、誰かわかるように説明してほしい。

この「エコ」なる言葉、いつぞやCMでさんざん耳にした「マイナスイオン」や「アルカリ食品」、「血液サラサラ」などと同じようニオイがする。この「エコ」や「環境」という言葉は、今や本来の目的を離れ宗教じみた世界的な怪しいビジネスのキーワードと化している。イラク侵略の失敗で、戦争による景気の活性化が図れなくなったアメリカの新たな経済戦略なんだろうな。


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2008年07月11日

出来ない奴を見極める

[うんちくん]
先日とある部署の売上登録方法を変更した。その変更はセキュリティの基本に習ってユーザの権限にかなりきつい制限をかけ使える機能を絞ったのだが、当面は試験運用とし、使ってもらいながらトライ&エラーで変更を加えていく予定であった。だから文句が出ることは百も承知だったのだが・・・

初日は実際に使った人から、具体的に「あの機能は使えるようにしてほしい」という要望があった。まぁこれは当然の要求だ。このような要求をつぶしていけば、一ヶ月もすればそれなりの落としどころに落ち着き、普通に使いつついい加減さはなくなるだろう。順調といえば順調な滑り出しである。

問題は二日目に起こった。初日休みの奴がいて、そいつもまた「この機能も使えるよう追加してほしい。」といい始めた。まぁこれはよい。問題はその後だ。「こんなめんどくさいことを何でしなければならないのだ。」とか「こんな制限をしなくても、『過去のデータは修正しないでくれ』と頼むだけでいいだろう。」とか、あれこれグダグダ言い始めたのである。それも例に洩れず回りに聞こえるような声で独り言をつぶやくのである。その独り言を聞いて今まで黙っていた奴も騒ぎ始め、「あなたは出来るかもしれないけれど私達はそんな難しいことできない。」とかあぼーんなことを言い出す奴も出てくる始末。

そもそもこの制限、過去のデータを勝手に修正するなと何度も注意したのにも係わらず、まったく改善されなかったために行ったものだ。簡単に言えば「アンタ等がいい加減だから制限したんだぜこのスカタン」って話なのである。「なに本末転倒な文句言ってんだこのアホンダラ」と一喝したくなるが、アホウに係わるとこちらも3の倍数アホウになるので無視。しかしあまりにしつこいので「どうにでもデータを操作出来るから間違えたりするのであって、それを自分達で改善できないのであれば操作できないようにするしかないよね。」と優しく伝えた。

間違いを起こさせないようにする最良の方法は「間違いをしないように注意しましょう」と呼びかけることではない。間違いを犯す可能性のある手順を排除することである。この制限は、間違いを修正するコストと制限をかけた場合のオペレーションコストを比較した結果の対策なのだということを全く理解できていない。そもそも、オマエらが適当なことをしなければこのような制限はかけられなかったことをまず理解すべきなのだが、出来ない奴にそんなことを要求する方が間違っているのは言うまでもない。

日常のオペレーションの変更は、普通はそのうち慣れてくるものである。出来る奴は最初にオペレーション上の問題点を想定し、その上で実際にやってみて問題点を理路整然と列挙してくる。つまり改善点を持ってくることが多い。逆に出来ない奴は問題点の想定が出来ない、今までのパターンから抜け出せず変更についてこれない、自分の言葉を持たずに他人の文句に便乗するなどの特徴があり、今回もその例に洩れない。

出来ない奴を見極めるのは非常に簡単である。今までの仕事のやりかたを変えて見れば良い。素早く適応しさらに改善する奴がよく出来る奴、黙ってなにごともなかったように適応する奴が出来る奴、少々文句を言いつつ適応する奴が普通の奴、文句ばかり言って騒ぐ奴は出来ない奴、他人の文句を自分の文句にする奴は組織の足を引っ張る奴である。

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2008年06月11日

最近気になるCM 三井住友海上編

[うんちくん]
最近気になって気になって仕方のないCMがある。それは会社概要/会社情報/三井住友海上にあるGK登場・対決篇/GK登場・巨大なゴール篇GK クルマの保険 横っ飛び篇/GK クルマの保険 ハイウェイ篇って奴。いや、堀北真希がカワイイからということじゃなくて、あんな物理的に無理が多い映像はどうなのかなと思うのだ、

あの堀北真希扮するGKは、見た感じ足の裏2箇所からのジェット噴射のようなもので空中に浮き上がっているように見える。たった2箇所からの噴射で安定して立っていられるのがまず不思議である。考えられるとすれば、2箇所だけに見えているが実はかなりの数の噴射口があり、多数の噴射口を独立制御しているということか。

まぁ、ここまでは許す。

問題はボールを受けたときである。空中に浮いている状態は、ほぼ摩擦力はない。つまり、ボールを受けたときには、GKは必ず後退する。サッカーボールの重さは410~450gであり、シュートスピードはスピードチャレンジ - MIZUNOを見る限り、90Km/hくらい出ていてもおかしくはない。

ここで、仮に堀北真希の体重が42kgとした場合、このGKが90km/hで動く420gのボールをキャッチすれば
0.42kg x 90km/h=(0.42+42)kg x V km/h
という式が成り立つ。これを解くと、Vは0.89Km/hとなり、微妙にではあるがGKは後ろに押される。悪いことにこのGKはエアホッケーのパックのような状態であるため、そのままでは止まる事はない。つまり、なんらかの形で前へ推進力を与えないと、結局はゴールインする時間を引き延ばしただけという羽目になるのである。

さて、ここで最初の疑問にぶち当たる。足の裏2箇所だけの制御で、この微妙な動きを実現できるのかということだ。少し足の裏を斜めにすれば、多分氷の上ですっころぶような状態になるように思う。明らかに姿勢制御用の噴射口が少なすぎるのである。

というか、空中にわざわざ浮き上がる必要がどこにあるのか、俺には全く理解できない。ひっくり返って頭を打つような状況しか想像できないこんなCMを、なぜ作ったのか小一時間問い詰めたいのだが、どうか。

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2008年05月24日

コーヒーフレッシュが乳製品でないことを認識する方法

[うんちくん]
コーヒーに入れるミルクの代わりによく使われるコーヒーフレッシュ。直接飲んでもうまいという話もあるようです(どろり濃厚コーヒーフレッシュ 参照)が、そのほとんどは乳製品ではありません。

ものすごく怪しげに表現すれば、コーヒーフレッシュは植物性油脂を界面活性剤を用いて乳化させたものです。乳製品だったら常温で保管しておこうなんて思わないし、常温で保管したらすぐ悪くなっちゃいます。人工の製品だから長持ちするんですね。コーヒーフレッシュの怪しさをもっと味わいたいという人は、安い&使い放題 「コーヒーフレッシュ」にホンモノのミルクなし - MyNewsJapanでも読めば楽しめるかもしれません。

さて、このコーヒーフレッシュですが、これが乳製品ではないことを視覚的に認識する方法があります。やり方は非常に簡単。

まず、コーヒーカップを用意し、中にインスタントコーヒーの粉末を入れます。
ピンぼけだけど勘弁してね

つぎに、このコーヒーの粉末にコーヒーフレッシュを入れます。要はお湯を入れる前にコーヒーフレッシュを入れちゃうってことね。この段階で混ぜるとさらに効果大。
インスタントコーヒー粉末の中に沈んで判り難い!!

おもむろにお湯を注ぎます。
これもピンぼけ orz

さぁてお立会い。ここに浮いているものは何でしょう。牛乳などの乳製品を使い同じ手順でコーヒーを入れても、上に何かが浮いたりはしません。ですから、まず間違いなくコーヒーフレッシュに入っている「油」です。想像するに、インスタントコーヒー粉末のなにかがコーヒーフレッシュの乳化剤に作用し、コーヒーフレッシュに含まれる油脂が分離したものと思われます。

俺は後からコーヒーフレッシュを入れてかき混ぜるのがめんどくさくてこういう作り方をしていたのですが、最初はコーヒーフレッシュが腐っているのかと思っていました。だけど新しいコーヒーフレッシュでも同じことが起こります。当たり前ですが、お湯を入れた後にコーヒーフレッシュを入れる通常の手順では分離しません。

お試しあれ。

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2008年05月11日

ニセ科学レベルの薬

[うんちくん]
最近「なんとかの調子がおかしいならホゲホゲ」みたいな趣旨の薬のTVCMが目につく。ぼーっとこのCMを眺めながら、「この薬って意味あるんだろうか・・・」という考えが頭をよぎる。

風邪を引いたら、その辛い症状を和らげるために風邪薬を飲む。腹がいたいときや頭痛が痛いするときも、その症状を和らげたり症状の原因を取り除くために薬を服用する。これは「必然」レベルの薬の使われ方といっていいだろう。

そのもう一方で、健康を維持するために飲むビタミン剤などもある。こちらはエンジンに投与する添加剤のようなもので、なくても特段困るものではない。たださらに調子を上げたいとか何かの予防にとかの「保険」レベルの薬だ。

最近ではこの中間の「なんとなく調子がよくない」ことを改善することをうたった薬が出ているのは、非常に興味深い。そもそも体調がいつでも万全な人など数える程しかいないだろう。誰もどこかに不調を抱えているし多少は体調がよくないと思っているものだ。その不安感解消を狙った素晴らしい商品であると思う。

人体は非常に微妙なバランスの上に成り立っている。ほんの少しの異物でも人体にあたえる影響は大きい。体重60Kgの人の致死量は、エチルアルコール480cc、カフェイン15g、ニコチン0.8gだ。身の回りにあるものでもたったこれだけの量で死んでしまうである。一般的な薬はもっとすごく、あんな微々たる量でもそれなりに効き目がある。そう考えた場合、すこし調子が悪いと感じる程度での強い薬の服用は逆効果になりかねない。

となれば、この「あってもいいかも」レベルの薬は、その主成分の量を非常に少なくして効き目を抑え、量が少ないため副作用も少なく、なおかつ健康に近い人が服用するため良く効くと思われてしまう商品と推測されるのだ。これを素晴らしい商品と言わずして何と言おう。安くて効き目があるように思われて害も少ない。完璧だ。しかし逆を返せば、使わなくてもいいものと言えるのではないだろうか。

つまりその存在価値は、結局「あってもいいかも」というレベルであり、その商品コンセプトの根底は「ニセ科学」をうたった商品に近いといえるのではないかと考えるのだが、いかがか。

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2008年04月12日

ネット規制は誰の為?

[うんちくん]
ネット規制にばく進する自民党 「有害情報」を流せば懲役刑も|経済ジャーナリスト 町田徹の“眼”|ダイヤモンド・オンライン

ネット利用者が増え続けているからなのでしょうが、ネットの悪い面もどんどんと表に出てきています。なぜここまで規制規制と騒ぐのか、不思議ですよね。

利用者数や利用者の懐具合を考えた場合、青少年向けの携帯コンテンツ規制はそんなに経済面で打撃をあたえることはないでしょう。ネットにそんな影響力があるとは思えませんし、規制がうまくいったとしても今と大きく変わる事があるとも思えません。

なんだかネットを悪者にしたいという意志が感じられるのは気のせいでしょうか。

3月31日からNTTの次世代ネットワークである光ネクストが開始され、アクトビラ-wikipediabrancoのようなサービスがさらに活性化していくものと思われましたが、物事はそう簡単ではないようです。どうもNTT次世代網、静かなスタート まだ地デジ見えずというニュースにもあるとおり、TV局が絡んだ映像配信が大きく足を引っ張っているように見えます。

このまま行けば、多分地デジ切り替えは期日に間に合わないでしょう。さらには地デジが映らない場所もたくさん出てくると予想されます。現に我が家は6局のうち2局しか受信できません。アナログであれば多少画像が悪くても受信できるのですが、デジタルは映るか映らないかの二通りしかありません。利用できない人の声が大きくなったそのとき、TV関連のネット配信はなし崩しに進められる可能性は大きいと思います。

そのなし崩しを防止するための先手として、このネット規制が打ち出されてきているような気がしてなりません。一部ではフィルタリング技術を天下りの温床にするのではという話もありますし、移り変わりの激しいネット関連を動きの遅い官に任せたら大変なことになると断言してもいいでしょう。

といいますか、国外のサーバに関しては規制を適用できないのに、こんな規制をかけて何をしようというのでしょう。携帯電話は多少のガラパゴス化が出来ましたが、ネットでもガラパゴス化できるなんて思っているのでしょうか。もしできると思っているのなら、かなり頭が御目出度いとしか言いようがありませんね。

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2008年04月11日

傾いているのはGSだけじゃないぞ

[うんちくん]
ガソリンスタンドの地面は、傾いている | エキサイトニュース

いや、これは普通常識だろと思いながらも似たような話題を一つ。

トンネルってのは同じ高さの地点をまっすぐ繋いで掘っちゃうと中央に水が溜るようになってます。なんたって地球は丸いですからね。真直掘ると中央部が一番標高が低くなります。だから両端が同じ標高のトンネルは、トンネル中央に水が溜らないように中央を高くして傾斜をつけているんですよ、ええ。

もっと身近なところでは道路かな。道路は中央分離帯を中心に数度(確か1~2°だったと思う)傾斜がついています。微妙にハンドルを取られるので気がついている人も多いと思いますが、これも水平だと中央に水が溜ってしまうからです。

当然側溝も傾いています。つか、傾いていないと水が流れないですから、残念。銭湯だって傾いているし、プールの底に傾斜がついているのも同じような理由でしょう。

このやうに、土木建築物などは基本的には水が流れるように傾斜を付けているのが多いですね。ちなみに、道路に水が溜ってしまうもうひとつの大きな原因である轍(わだち)ですが、高速道路の場合は補修の基準があるらしく、わだちの深さが1cmを越えたら補修しなきゃダメと決まっているって聞いたことがあります。だけど収入によっては工事もままならない高速道路もあるようですよ。あんなにお金をじゃぶじゃぶ使っているように見える道路ですが、東北自動車道など交通量の少ない所はお金がないのでわだち2cm位まで補修しないとか・・・この話を聞いたのはかなり昔なんですが、本当の現場には意外にお金が回っていないのかも知れませんね。

じゃ、その金はいったいどこに消えているのか、それはお釈迦様でも気がつかないところに無くなっているんでしょうね、多分。

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2008年04月09日

過剰なサービスをもたらしているもの

[うんちくん]
【断 中村文則】過剰なサービス - MSN産経ニュース

うーん、個人としてはそのとおりともろ手を上げて賛同したいのですが、一応飲食店のような業態にも絡んでいる俺は違う側面からの言い分も多々あります。まぁ、そのあたりの言い分は【2ch】ただニュース速報 「過剰なサービスのせいで日本人はどんどん馬鹿になる」でほとんど出尽くしているのでさらっとだけ。

まずなぜ片付けるかは、お客に主目的は達成しましたね?という事を認識してもらうためです。それからもう一つ、食べ終わった食器は早く片付けるのが良いサービスと認識されているから。つか、食べ終わった食器をそのままにしておくと逆に「早く片付けんかい(怒)」みたいに思われたりします。それから「呼ばれてから行動する」のは良いサービスと認識されません

また、片膝をついて注文を聞くのは、これもその行為が「良いサービス」と認識されているからです。

店も商売ですから、売上はたくさんあった方がいいです。で、商売人は基本的に臆病(冒険はしたくないと言う意味で)です。よって他店と比較して「劣る」と思われる所は改善しないと客足は遠のくのでは・・・となります。

その結果、当然ながら今まで過剰と思われたサービスが一般化し、さらに過剰になっていきます。だけどそれはお客が支持するからなんですよ。こんな状況はサービスする側だけでつくり出したのではなく、サービスされる側も一緒になってつくり出したのですよ。そのことを中村文則さんはわかっておられますでしょうか。

中村文則さんのようなお客は、多分少数派です。いや、もしかしたら大多数が中村文則さんの意見に賛同されているのかもしれませんが、飲食店のノウハウの中には採り入れられていません。そして、飲食店は基本的に商売であり、その場所に存在しているだけで金がかかります。長居をする人からは場所代を頂きたいのが本音です。そもそも知人宅などでそんなに長居はしないですよね。相手の事を考えながら行動を決めるはずです。商売とて同じで、材料費や店舗の維持に係わるお金は当然代金として頂きますが、それ以外は対等な関係であるべきなのではないでしょうか。その対等な関係の構築こそが正常な状態をもたらしてくれるものと思います。

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2008年03月29日

「情けは人の為ならず」を勝手に解釈してみた

[うんちくん]
先日、突然笠地蔵というエントリが駄文にゅうす朝目新聞にリンクされ、トンでもないアクセス数にびっくりしている俺ですこんにちは。

その笠地蔵情けは人の為ならず - Wikipediaという言葉があるので・・・というコメントが付いていました。この言葉は「情けは人のためではなく、いずれは巡って返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」という意味だとされていますが、ひねくれものの俺にはどうも違う意味のような気がしてなりません。

カルトでない宗教とカルトを見分ける一つの方法として、「カルトでない宗教は善行に見返りを求めない」と言う話を聞いたことがあります。同じように「愛」というのも見返りを求めないものであると言われます。

悪行には報いがあるというのは昔話によく出てくる話です(かちかち山さるかに合戦舌切り雀など)。昔話や諺などは、本来「やってはいけないこと」を伝えるという役割も担っていたと思われますが、現在では馬鹿みたいな腑抜け話に改竄されているようです。自分が見たくない聞きたくないからといって、本来の持つ意味さえ歪んでしまうくらいに変えてしまうのはやりすぎです。

俺のじいさんはマタギだったので、【知る】自給自足を営んでいる人々の、お肉が食卓に上がるまで(ザイーガ)のリンク先にある【Warning Slaughter】の写真などは日常の風景で、懐かしさはあれど特段なんとも思いません。しかし見たことのない人にとってはショッキングな内容かもしれません。つまり、【Warning Slaughter】の風景が日常であったころは、かちかち山さるかに合戦舌切り雀も残忍な話として受け取る人はいなかったはずです。

**おおっと**話が逸れましたね。俺はこのような諺などの基本は「人を困らせたり悲しませるな」という教えであって、「人が喜ぶことをしろ」ではないと勝手に解釈しています。良かれと思ってやったことでも大きな御世話なんて話もありますから、最大公約数的な考えをすれば「善い行いの推奨」よりも「悪い行いの戒め」のほうが効力が高かったのではないかというのがその理由です。

さて、ここから一気に本題。情けをかけて得するのは誰でしょうか。一番確実な答えは「情けをかけた本人」ではないでしょうか。「情けをかける」ことで「自分をいい(やさしい)人間」という「自己満足(愛)」はほぼ確実に満たされます。情けをかけられたほうが何を思っているのかは、情けをかけた人には絶対にわかりません。このあたりは不幸思考回路の排除あたりに同じような事を書いていますので、めんどくせーからこのあたりでやめておきます。この考えは「マッチョとウィンプ」にも通づるので、それはまたそのうち書きますか。

要は「人の為に情けをかけるのではなく、自分がそうしたいから情けをかけるのだ」という意味じゃないのかなぁと思っているってことが言いたかっただけ。長々とたわごとにおつきあい頂きご苦労じゃったの。

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2008年03月13日

中間管理職を延命させているもの

[うんちくん]
IT導入にともなう“新”中間管理職不要論:増岡直二郎の「企業とシステムを救う ユーザーからの提言」:ITpro

中間管理職が悪者になって久しいですね。中間管理職は流通業でいえば中間卸業者、不動産でいえば中間斡旋業者のような中間搾取者として扱われることが多く、コストを引き下げのために排除されてしかるべき存在と捕らえられやすいのは事実です、理論で言えば。

とはいうものの、トップ<->平のようなフラットで中間管理職がいらない組織が本当に実現可能なのかはあまり言及されていないように思います。なぜ言及されないのか、それは多分に「現実には不可能な要素が多い」からでしょう。

実現を妨げている第一の要因は、そんなスーパーなトップはあまりいないだろうということです。規模がそれなりに大きな組織の場合、トップがスーパーマンもしくは独裁者でなければフラット化は困難でしょう。簡単に言えば、「あなたは中間に誰もいなくて200人使えますか?」ということですよ。そんなスーパーマンなんてそうざらにはいません。もっと言えばIT化ではフラット化など進みません。それどころかIT化で情報伝達だけフラット化を進めたら、トップに直接いろんなことが飛び込んできて仕事どころじゃなくなる可能性大です。スパムメ-ルフィルタのないメーラで、一日数千通メールが来たら処理できないのと同じです。また、以前のように終身雇用という従業員の奴隷化が出来れば拘束力に物を言わせてどうにか出来たかも知れませんが、今ではその拘束力さえありません。そして、組織の規模を小さくしたらそれは結局は中間管理職を置くのと同じです。

第二の要因としては、職場にいるのは能力のある人間だけではないし、能力がある人間だけでもうまくいかないということです。能力のある人材が欲しいのはやまやまですが、希望どおりになど行くはずもありません。よしんば能力のある人材が多数いたとして、それで期待どおりの結果がでるのでしょうか。例えば、サッカー日本代表がロナウジーニョ、カカ、クリスチアーノ・ロナウド、テベス、ロッシみたいな選手ばかりだったらうれしいですね。だけどそのメンバーで勝てるかどうかは別の話です。俺は勝てないと思いますよ。個の力とチーム力を高い次元でバランスさせたチームが強いのであって、高い個の力を集めただけではチーム力はあがらないでしょう。

第三の要因は、トップ自体が中間管理職を欲しがっているということ。これは第一の要因とも密接に関連しているのですが、トップにとっては中間管理職を束ねるだけのほうが圧倒的に楽です。実際かなりフラットな組織にしても、リーダー的存在というのは自然発生的に出てきます。組織は黙っていてもピラミッド型もしくは特定の主要人物を中心にしたスター型になっていくことが多く、それを無理矢理フラットにするほうに無理があるようにさえ感じます。

硬直した組織は弊害が大きいのは事実でしょうが、変えれば良いというものでもありません。黒沢の「七人の侍」のように、多種多様な役割を個人が受け持ち、そしてバランスが取れている組織を作ることが出来たら最高でしょう。なかには実際の業績にはさほど関与していないけれど、ムードメーカーのようにいるだけで作業効率があがる人だっているでしょうし、またそんな人は絶対に必要です。組織のバランスが取れていればお互いの役割を認め合い尊重しあうため、仕事の業績だけでは判断出来ない部分も多数出てくるはずです。そこまでいってこそ本当の意味でのフラット化が出来るのだと思います。

というか、フラット化が本当に実現可能で有意義なものであるならば、多分軍隊が一番最初にそうなると思うんですが、そんな話は聞いたことないです。中間管理職を悪者にするのは、それが悪者にしやすいからだけではないかと思うのですがどうなんでしょうかね。

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2008年03月05日

ブレーキングに関する蘊蓄

[うんちくん]
先日人の運転する車に乗る機会があった。他人の車の運転はドキッとする事が多い。その理由は簡単で、操作が自分のタイミングと違うからだ。アクセルを踏むタイミング、ブレーキを踏むタイミング、ハンドルを切る(戻す)タイミング・・・全てが微妙に違う。

特にドキッとさせられるのは、ブレーキングのタイミングが自分の危険レベルを越えて遅い場合ではないかと思う。これは俺の偏見かもしれないが、二輪車に乗ったことが無い人は、得てしてブレーキングし始めのタイミングが遅いように感じる。ブレーキを過信しているようにしか思えないのである。

二輪車は四輪車に比べると格段にブレーキングが難しい。

二輪車はタイヤが2つしかなく、操作系が前輪ブレーキと後輪ブレーキに独立している。なぜ独立しているのかというと、速度やブレーキングの強弱によって適正な前後のブレーキング強度が変わるためだ(と思う)。特にハードブレーキングではリアブレーキなど無いに等しい。これはハードブレーキング時にはその加重のほとんどが前輪に掛かるためで、レースなどで観るとハードブレーキング時にリアタイヤが地面から離れていたりするのはそのためだ。ハードブレーキング時には一輪走行しているようなものなのである。タイヤが宙に浮いた状態でリアをブレーキしても無意味なのは誰が考えたって判る。

コーナリング時のブレーキングもなかなか難しい。トラクションを稼ぐための軽いブレーキングは「あり」だが、車体をリーンさせた状態でのフルブレーキングはほぼ不可能だ。二輪車は車体を傾けることで重力と遠心力のバランスを取ってコーナリングしており、ここに急激な荷重移動が起こればそのバランスは一気崩れてしまう。フロントフォークで前輪を保持している二輪車は、ノーズダイブ(フロントフォークが縮むこと)すればどうしても直進力が強まってしまうのである。コーナリング中にブレーキングすると、二輪車によっては急激に車体が起き上がるものさえある。極論すれば、二輪車は直進状態でしか止まれないのである。

物理的な制動力で言えば、もしかしたら四輪車と二輪車は大差ないかもしれない。先にも述べたように二輪車のフルブレーキング時はほぼ一輪で止まるようなものであり、慣性力を摩擦力で熱に変えるブレーキングに於いて二輪車は非常に不利と感じる人も多いかも知れない。しかし単純に計算してみれば、オートバイの場合は一輪に掛かる加重は(車重+人≒250Kg)÷2×(速度の二乗)で、車の場合は(車重+人≒1000Kg)÷2×(速度の二乗)÷4となりほぼ変わらないと言ってもいいだろう。だが、大きな違いはやはりタイヤの数で、前輪がグリップを失ったらほぼおしまいの二輪車に対し、四輪車はまだ一輪がグリップを失ってもあと3つもタイヤがある。どちらが安全性が高いかなど言うまでもない。

なにより二輪車は、自分のミスがそのまま転倒などの自分の体へのペナルティとなって返ってくる。このような特性から、オートバイ乗りはタイヤのグリップを左右する路面状態とその制動距離に過剰な程の注意をはらいながら運転せざるを得ないのである。結果として安全マージンの取りかたが四輪車より大きくなり、かつ危険察知能力も高くなるのではないかと思っている。

さらに四輪車にはブレーキサーボ機能やらABSやら、四輪車はその車重を制御するための様々な仕掛けが付いている。ただでさえお気軽に止まるのに、さらに安全性を向上させるしくみが付いているのだ。しかし、その安全性にかまけて過信は頂けない。その過信が、俺の体に染み込んだ危険察知センサーを作動させるのである。

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