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2016年11月24日

知らないことは幸せであり罪である

[これでいいのか]
先日頂いたコメントから、思うところがあったので書いてみる。

ウチの親父は数年前に亡くなったのだが、その原因は確か「肉腫」だったと思う。それはかなり前から見つかっていたらしい。悪性ではなかったのでそのまま放置していたようだ。手術すれば治ったのが、手術は結構な大病院でなければ無理と言われていたらしい。家は全く家計に余裕がなく、親父はそんな大病院の医療費の支払いなど出来ないと思っていた。その上、高額医療制度など全く知らないばかりか、俺への相談さえなかった。俺も金は持っていないが、そういう知識は少しは持っているわけで、相談して貰えば何かしらの手は打てたかもしれん。

「肉腫があって、もう取れないらしい」と親父言われたのが死ぬ半年くらい前で、あれよあれよという間に死んだ。母親も同じようなもんで、自分の体調の悪さとかを金が無いとかで我慢していたら結構ヤバイ病気で、こちらもサクッと死んでしまった。

昔、いつでも明るいだけのバイトがいたが、話をしてみると何も考えていないし知識も乏しい。思慮が浅く知識が乏しいと悩みも少ないというのを、彼女を見て初めて知った。周りは彼女のことを馬鹿にしていたが、ああいう生き方も幸せだと思う。

知識は悩みを生み、それを解決しようという苦労も生む。解決できたときの喜びは大きいものがあるのは確かだが、自分で解決できないことを知ったときの絶望感は言い表すことが出来ないほど大きい。悩んで悩んで悩み抜いて覚悟を決め諦めるのと、知らずに生きるのとでは、その段階での結果は全く同じである。どちらが幸せなのかとつくづく思う。

これはまるで『億万長者』というアメリカンジョークの裏返しのようで興味深い。


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posted by oyajiman at 2016年11月24日 22:00:00



コメント

ラスク

お礼です。コメントから題材を取り上げていただき、ありがとうございます。

億万長者のジョークは読んでいたら昔どこかで読んだことを思い出しました。

アメリカ人の言う生活の違いは、メキシコ人が今漁をしているのが生活のためか、それとも趣味かの違いだけなのですね。でもその違いは大きく、単なる笑い話ではないと思いました。

そして話は変わりますが、うちの母親は今年89歳になりますが、もし何かの疾病に罹患したら、一切の延命治療は拒否すると常日頃から言っております。書付の場所も教えられております(どこかは忘れましたが)。

それは、父親(うちの祖父)の最後を看取っていた一人としての決断なのだそうです。祖父は医者でした。戦前のことですから、よくある話で、(多分)結核患者から菌をもらって発症し、結局そのままになりました。祖母も感染したらしく、後を追うように亡くなったそうです。

祖父の臨終のとき、見守っていた従弟の医師が、祖父の脈が止まったのをみて強心剤を注射しました。すると祖父の目が開き「何ということをしてくれたのだ、やっと逝けると思ったのに、二度としないでくれ」と言ったそうです。それで、次に臨終のとき、従弟はそれを見守ったそうです。

母親はその時、死というものは免れないものであり、抗ってはならないものだと思ったそうです。

うちの父親も、多分老衰で、痴呆を発症してから半年持たずに逝きました。

うちも同意見で、もう還暦を過ぎましたが市の推奨する定期検診など受けていません。もし何かの疾病があったらそれは天命だと、寿命なのだと思っています。

現代社会では長寿がもてはやされ、長生きすることが人生の美徳のように喧伝されていますが、実情寝たきりの生活だったり、延命セ装置につながれ、あるいは胃瘻処置により生かされているだけの生活だったりします。

そういうQOLに乏しい人生に生きがいや潤いがあるでしょうか。極論して、「生きる価値」があるでしょうか。

叔父の一人は完全に痴呆がはいって、施設に収容され、数年間そこですごして逝きました。自分が誰なのか、どこで、何をしているのか全く理解していなかったことでしょう。
個人的にそういう人生は送りたくありません。

人間として、知性と、理性と、記憶と、楽しみを知ったまま逝きたい。それだけが願いです。

メンヘラの戯言として聞き流して下さい。失礼しました。
2016年11月26日 20:37:38

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