Linuxからアホ話まで、何でもありでござる
2014年05月05日
自分を正当化することで自分を守っているのだろうか
[つれづれなるままに]
知人から聞いた、知人の会社に中途で入社した奴の話。
そいつは手際が悪く、仕事の覚えも悪かったという。他のところでも長く続いたことがなかったらしい。あまりに見込みがなかったので、契約満了でおしまいにした。
しばらく経って、知人の部下が「このブログ書いているの、もしかしてヤツじゃないですか?」と言ってきた。読んでみると、確かにそれっぽい。特段会社の恨みつらみを書いているわけではないようだ。その時は「ん~、そうかもしれんね。」で会話は終了した。
その後、知人はなんとなくそのブログが気になって、つらつらと最初の方から読み始めた。すると、勤め先で長続きしないことへの憤りやそれに対する自己嫌悪、それに端を発してのような社会や両親に対しての不満が散見されたらしい。それは次第にエスカレートし、普通に働いている者を「社畜」扱いしたり、自分だけは違うという思い込みが文章に現れるようになった。多分、自我を守るために自己防衛機能が働いているのだとは思うが、それはあまりに悲しく残念な変化に見えたのだという。
そのサイトの主が知人の会社にいたやつかどうかはわからない。だが、多分同じような心境だったのではないかと知人は言う。
思い返せば自分にもそういう時期があった。誰も俺のことをわかってくれない。なんでわかってくれないのか。わからないなんて理解できないしわからない奴がバカなんだ。そんな奴ばかりのこの時代はおかしいのだ。そうだ、俺が正しく特別なのだ・・・そう思うのであれば、突っ張って突っ張って突っ張りぬいてみればいい。
ただ言えるのは、他人は自分を写す鏡のようなものだということだ。自分が変われば相手も変わるなんてキレイ事は言わない。しかし、攻撃すれば、それが直接的か間接的かは別として反撃されるのは確かだ。そして、なにより、自分のことは自分だけでも好きであってほしい。せめて、自分だけでも自分の味方になるべきだ。自分が嫌いだから他人も嫌いになることを忘れちゃいけない。
posted by oyajiman at 2014年05月05日 01:00:00
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