さきほどちょっとした話から、日本語のすばからしさを実感する機会に恵まれた。
会話としては
オマエはいつもそうだなー。
いーえ、たまたまです。
みたいな感じだったのだが、そこで俺は「またまたー」とくだらないツッコミを入れるに至った。
俺にとっては「たまたま」と思っているのだけど、他人から見れば「またかよ」なんてのはよくある話。言葉の意味としてはかなり対極であろう「たまたま」と「またまた」、しかしそれは感じ方の違いで「たまたま」は「またまた」に、「またまた」は「たまたま」になるのである。
それどころか、「たまたま」を繰り返して口にしていると、そのうち「たまたま」と喋っているのか「またまた」と言っていたのかわからなくなって来る。つまり、時としてあるという意味の「たまたま」と、よくあることというニュアンスの「またまた」は、発声段階でもとても近い位置にあるのだ。そのうえ「たまたま」には自分を正当化させたいニュアンス、「またまた」には人を茶化すニュアンスも含まれていることが香ばしい。
なんとそれだけではない。生物学的に言ってもオスの「また」のそばに「たま」があるのだ。いや、そばと言うより一体化している。発声しかり生物学的な位置しかり、「た」と「ま」だけで色々な意味を含んだこの言葉は、日本語の含蓄の深さと素晴らしさを実感させてくれる顕著な例といえよう。