少し前から「ライフワーク」なる言葉をちらほら目にするようになった。いわゆる「天職」のことなのだが、最近は拡大解釈して使うらしい。
ライフワーク - Wikipedia
さて、このライフワークとやら、「天職」という意味だけで考えると、昔はそう見つかるものではなかったものだ。だから「あの人は天職につけてよかった」とか言われたのである。なぜ見つかりにくかったか。それは情報量が圧倒的に不足していたこと、一旦ついた職からはそうそう離れることがなかったことなどが上げられるだろう。時代が違うといえばそれまでだが、だからこそ「天職」につけた人を羨ましく表現することが多かったのだ。
今では生涯通じて打ち込めることなどもライフワークと称するらしい。その良し悪しは別として、それを見つけるためにはいろいろなことを試してみるのが一番の近道だろうと思う。いろいろ試した中で、いつの間にかこれがライフワークになったというのが普通の姿ではなかろうか。だから最初から「これが俺のライフワーク」と決めること自体がおかしなことであり、自分に自分で足かせをつけているのと同じことなように思える。
更にいうと、人は何かを探している時が一番楽しかったりする。見つかった後の幸せは、見つけるまでの幸せと異質のものではあるが、探しているときは本当に楽しい。見つける楽しみや幸せを知らずして、見つかった後の楽しみや幸せが判るのだろうか。
そもそもライフワークは必ず見つけなければならないものなのか。
それは違う。ライフワークと思えるものがあるに越したことはないが、それは必要条件ではない。これを勘違いするのは手段を目的と勘違いするのと同じことであり、大きな間違いだと俺は思う。