先日、会社にあった日めくりカレンダーに「厳しさを苦痛としない心を養おう」という言葉が書かれていた。言わんとしていることはわかるのだが、どうも引っかかる。我慢できるようになりなさいというニュアンスにもとれるからだ。
梅雨が明けて猛暑が続いている。そして、世の中節電節電でエアコンを使うのは「悪」見たいな風潮だ。その暑さに耐えることが美徳とされ、みんな合言葉のように暑い暑いとつぶやきながらもその美徳を尊重する。「なんと美しい姿だ!」などと俺は全く思わない。我慢して暑さを乗り越えたって忍耐力がつくくらいだ。我慢して熱中症になっても誰も褒めてはくれないし、それが知らず知らずのうちにストレスとなって予想だにしない影響を体にもたらすかもしれない。かたや、暑いのが大好きな人間はこの暑さもそんなに苦にしていないだろう。
子供が熱中しやすいものに「TVゲーム」がある。振り返って見ると「よくあそこまで長時間やれたもんだ」と感心するくらいのめり込むことしばしである。俺自身、FPSのやりすぎで体調を崩したりしている。ただ、のめり込んでいるときは楽しくてしかたがなく、長時間プレイすることでの体への負担などはあまり気がつかない。
以前「
がんばることを賞賛する危うさ」というエントリにも書いたのだが、嫌なこと、厳しいことを苦痛と感じないようにすることは不可能だろう。暑さやTVゲームの例でも書いたとおり、厳しさを苦痛と感じていないように見える人は厳しさ自体をさほど感じていないのだ。だから、「厳しさを苦痛としない心を養おう」というのは「「厳しさの中にも楽しみを見出せる心を養おう」という意味であれば納得が行く。しかし、これが「厳しさからくる苦痛に耐えられる心を養おう」という意味であれば全く納得できないのである。我慢で物事を解決しようとすると、そこからはなにも解決策は生まれてこない。だって、我慢すればいいんだもの。欲しがりません勝つまでは、みたいにね。