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2009年07月10日

スルーを見直す時期にきているかもしれん

[つれづれなるままに]
「質問って結構難しいです。最近それを強く実感してます。」-駄文にゅうす

ネットと関わる時間が増えていくと、当然のように残念な人を目にする機会も増えてくる。特に読解力が残念な人や書いてもいない行間が読める特殊能力を持った人などは一定の確率で存在するため、そのような人たちからひとくされ入れられる場面に遭遇してしまったりする。その場合は、変に刺激したりせず「スルーが一番」と言うのが一般的になっているように思う。実際俺もそう思ってきた。君子危うきに近寄らず、であると。

しかし、最近「ちょっと違うんじゃないかな?」と感じることが多くなってきた。ネットでのマナーというかネチケットみたいな物は頭で理解するだけでなく、まわりから注意されたりたしなめられたり実際に恥をかいたりして身につくものではないかと思うのだ。明文化されていない曖昧な部分やその場その場に応じた対応は、身に染みついた規範や慣例のようなものでしか判断できない。それはいろんな経験をして初めて身につくものではないのか。

スルーされてばかりの残念な人はそんな経験は出来ないのである。そんな思いを最初に持ったのは、テキスト王赤の他人の嘲笑が一人の人間のベクトルの向きを大きく変えたというお話を読んだときだった。超粘着野郎とかはスルーが基本だろうが、学んでいない残念な人にはスルーでない対応をするべきではなかろうか。ダメなことはダメなのだ。それも法律にふれるとかそういう低次元の話ではなく、お互い気持ちよくネットを漂えるようにするためには、多少の不快感を厭わずに対処していく必要性を強く感じる。

硬い石だってあちこちぶつかりながら流されれば丸くなるのだ。古くからネットに棲息する人は、そんな流れを作る責任を感じてもいい時期ではないかと思う。



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posted by oyajiman at 2009年07月10日 23:00:00



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