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2008年03月29日

「情けは人の為ならず」を勝手に解釈してみた

[うんちくん]
先日、突然笠地蔵というエントリが駄文にゅうす朝目新聞にリンクされ、トンでもないアクセス数にびっくりしている俺ですこんにちは。

その笠地蔵情けは人の為ならず - Wikipediaという言葉があるので・・・というコメントが付いていました。この言葉は「情けは人のためではなく、いずれは巡って返ってくるのであるから、誰にでも親切にしておいた方が良い」という意味だとされていますが、ひねくれものの俺にはどうも違う意味のような気がしてなりません。

カルトでない宗教とカルトを見分ける一つの方法として、「カルトでない宗教は善行に見返りを求めない」と言う話を聞いたことがあります。同じように「愛」というのも見返りを求めないものであると言われます。

悪行には報いがあるというのは昔話によく出てくる話です(かちかち山さるかに合戦舌切り雀など)。昔話や諺などは、本来「やってはいけないこと」を伝えるという役割も担っていたと思われますが、現在では馬鹿みたいな腑抜け話に改竄されているようです。自分が見たくない聞きたくないからといって、本来の持つ意味さえ歪んでしまうくらいに変えてしまうのはやりすぎです。

俺のじいさんはマタギだったので、【知る】自給自足を営んでいる人々の、お肉が食卓に上がるまで(ザイーガ)のリンク先にある【Warning Slaughter】の写真などは日常の風景で、懐かしさはあれど特段なんとも思いません。しかし見たことのない人にとってはショッキングな内容かもしれません。つまり、【Warning Slaughter】の風景が日常であったころは、かちかち山さるかに合戦舌切り雀も残忍な話として受け取る人はいなかったはずです。

**おおっと**話が逸れましたね。俺はこのような諺などの基本は「人を困らせたり悲しませるな」という教えであって、「人が喜ぶことをしろ」ではないと勝手に解釈しています。良かれと思ってやったことでも大きな御世話なんて話もありますから、最大公約数的な考えをすれば「善い行いの推奨」よりも「悪い行いの戒め」のほうが効力が高かったのではないかというのがその理由です。

さて、ここから一気に本題。情けをかけて得するのは誰でしょうか。一番確実な答えは「情けをかけた本人」ではないでしょうか。「情けをかける」ことで「自分をいい(やさしい)人間」という「自己満足(愛)」はほぼ確実に満たされます。情けをかけられたほうが何を思っているのかは、情けをかけた人には絶対にわかりません。このあたりは不幸思考回路の排除あたりに同じような事を書いていますので、めんどくせーからこのあたりでやめておきます。この考えは「マッチョとウィンプ」にも通づるので、それはまたそのうち書きますか。

要は「人の為に情けをかけるのではなく、自分がそうしたいから情けをかけるのだ」という意味じゃないのかなぁと思っているってことが言いたかっただけ。長々とたわごとにおつきあい頂きご苦労じゃったの。


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posted by oyajiman at 2008年03月29日 02:18:12



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