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2004年06月03日

長崎の事件から子育てについて思うこと

[これでいいのか]
長崎のショッキングな事件で世の中持ちきりだ。珍しいな事件かも知れない。誰もが「なぜ起こったのか」を知りたがっている。そんな時、poohpapaさん次男の家出を読み、色々な思いがよぎった。

私が子供の頃は、子供は喧嘩をしても当り前という感じだったし、多少の怪我で大騒ぎする親も子もいなかったように思う。今の大人は子供を子ども扱いしすぎるように思う。子供と言えども小学生にもなればそこそこ自分で考え、行動できる力はある。それなのに、今の大人は全て先回りして「臭い物には蓋」のような対応を取りたがる。これでは子供は何が危険で何がしてはいけないことかわからないではないか。私には小学生の子供がいるが、私の子供の学校や親の対応を見てもそうである。のびのび教育などと言えば聞こえはいいが、全て大人が準備してやって、その中で可もなく不可もなくの状態にしたいだけではないのか。私には学校も親も責任逃れをしているようにしか感じない。

首都圏で雪が降ると転倒による怪我人が続出するのは、雪道を歩いたことがないからだ。実際に雪道を歩き、滑る感覚をつかんでいればそう転倒はしないし、転倒しても転び方を覚えているのでたいした怪我にならないですむ。そのような体験させてやれる状況にするのが大人の使命ではないのか。

確かに理想を言えば、世の中全てが安全であることにこしたことはない。しかし、それはあくまで理想論であって、世の中には危険なことがたくさんあるし、これからも全てなくなることはないであろう。そうであれば純粋培養のような育て方ではなく、もう少し遠巻きに見る育て方をするべきではないかと思う。

私が小学生の頃は危険な遊びをたくさんやった。喧嘩もしたし、いじめられもした。人を殴ってみると、殴ったほうも殴られたほうも痛い。ナイフで指を切れば血が出て痛い。木登りをして木から落ちたこともある。喧嘩した後の気まずさも、子供の頃に何度も味わった。その中で「加減」と言うものを覚えたし、自分を守る方法も覚えた。自分に起こったことは良く覚えているので、あとは相手の身になって考えればいいだけの話である。

生きていく為に大事な能力をきちんとつけてやるには、自分で行動させることだと思う。これは放任ではない。大事なことは実際の体験とコミュニケーション能力をつけてあげることだと思う。

家族で食事などに行ったとき、子供は最初自分では注文したがらない。大人に取ってはつまらない簡単な事かも知れないが、子供にとってはかなり勇気のいることであるから、至極当然のことである。私も小さい頃、かなりドキドキして注文したものだ。だからといって、そこで大人は簡単に手助けをしてはいけないのである。やり方は見せてやってもいい。その後は食べたいものはできるだけ自分で注文させなくては、いつまでたっても人に頼る。しかし、難しいのは、子供が単に甘えたい時や、親の対応で自分への愛情を計っている時かどうかを見極める必要があることだ。小さな子供は家族の中では自分が一番でいたいのだ。あまりにも厳しい態度は、かえって逆効果になる。

最近は自分にも子供の頃があったことを忘れている人が多すぎる。自分も通ってきた道なのに、なぜ子供の気持ちがわからないのであろうか。いや、逆に子供のまま大人になっているのかもしれない。だから嫌なこととか危険なことは排除したいのかもしれない。

例えは悪いが、安全な箱庭に羊を飼うような感覚で子供に接しているような現在の風潮は、非常に憂うべき状況だと私は思う。確かに最終の柵は必要だが、その中には将来一人で生きていく為に経験しなくてはならないことをちりばめていかなくてはならない。そんなことを教育委員会などのいわゆるエリートが考えたって、机上の理論にしかならないのは当り前ではないか。教育委員会も一生懸命なのはわかるが、起こりうる状況は千差万別であり、その中で都度判断しなくてはならないことばかりである。それを大勢で考えたら、障害を取り除く方向に向かうのも至極当然だろう。そんな議論に時間を重ねるより、子供を抱きしめる時間を増やしたほうがずっといい。

私は子供を一人の人間として認めたうえで、溺愛すればいいだけだと思うのだが、どうか。溺愛することと甘やかすことは違う。愛情で溺れて死んだ子供なんて聞いたことがない。

現在は子供を馬鹿にしすぎている。もっと一人前と認めてやればいい。例え判断に稚拙な部分があっても、そんなのは大人でも往々にしてあることだ。子供はしっかり考えている。自分の知っている世界が狭いのと、うまく表現が出来ないだけである。これも大人だって同じで、「目くそ鼻くそを嫌う」レベルだ。だから馬鹿にしてはいけない。子供だからと下に見てはいけない。大人のほうが、世間体や立場を守る為におかしな事をすることのほうが圧倒的に多いではないか。子供の純粋な気持ちをおかしくしているのは私たちだ。

ネットが云々とか、スプラッター映画がとか、まったく関係ないと思う。子供は現実と幻想の区別がつかないと本当に思っているのか。そうであればめでたい限りだ。もし、仮に子供が現実と幻想を区別できないとするならば、今回のような事件は一切報道できないはずだ。区別がつかなくしているのは現実を覆い隠している大人ではないか。私は祖父がマタギだったため、子供の頃に動物をさばくところを何度も見ている。皮を剥ぎ、腹を裂き、内臓を取り出す。断末魔の悲鳴、その物体の触感、臭いを知っている。そのような実体験があれば、映像などで惑わされることはない。小学校で屠殺場の見学に行かないのはなぜだ。野良猫や野良犬の処分を見せないのはなぜだ。あまりショックを与えるのもいいことではないが、ペットを捨てるなと言うより、捨てるとこうなりますと実際に見せてやったほうがずっといいではないか。セックスに関してもそうである。見られることは恥ずかしいことと教育してきたからではないか。男にはチン○ンがあるし、女にはオ○ンコがあるのだ。なぜタブー視するのか。衣服をまとうのは恥ずかしいからではなく、体を守る為だ。顔を出すことが恥ずかしいことと教育されてきたら、顔を隠すようになるだけではないのか。

全ては大人になり切れていない子供が見たくないからだけではないか。子供は大人の知らない場所で大きくなっていくのだ。子供だからという大人のエゴで、純粋な子供をもてあそぶなと思う。それほど大人は子供に勝っているのかといいたい。今回の事件はそんな大人が生み出した事件であり、今後もますます増えていくと私は思っている。

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posted by oyajiman at 2004年06月03日 23:05:59



コメント

poohpapa

おやじまんさん、同感です。

社会科見学は、新聞社や工場なんか見せるより、屠殺場を見せたり、保健所に連れて行ってこれから処分されることになる犬や猫を見せる方が遥かに為になる、と思います。汚い面や恐いモンを見せないで何の教育なのか、という思いです。因数分解や方程式では「命の尊さ」は分かりませんもんね。

このこと、私もそのうちコラムで書くかも知れません。

それでは、また。
2004年06月07日 12:42:03

おやじまん

poohpapaさん、いつもいつもコメントありがとうございます。これ、勢いに任せて書いちゃったんで、あとで読むと支離滅裂でしたね・・・あはは。
便利な世の中であっても結局のところは不便な部分や嫌な部分を覆い隠しているに過ぎないですし、その「闇」の部分を特に大人が理解しないとまずいのではと思います。
また、いくら外が危ないからと言って、外で遊ばない(遊ばせない?)子供って、なんか変だと思います。これも多分「おとなしくてイイコ」に育てたい親のなせる技でしょうね。
勉強なんて興味があれば自分で言われなくてもしていくし、それより外で友達と遊んだ経験のほうが、大人になってずっと役に立つんだけどなぁ、と私は思っています。そもそも社会に出たとき、小学校の学力があれば何とかなると思っていますし・・・
2004年06月08日 00:48:54

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