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2012年02月17日

全て全部ズバッとお見通しなのに

[つれづれなるままに]
こんな話を聞いたことはないだろうか。
ある学校での話。ある学年でとても対照的なクラスがあったという。あるクラスはとてもまとまりがよく、何をやらせてそつがなかった。そのクラスの先生はとても厳しく、授業での私語もなく素晴らしい授業風景だったらしい。もう一方は生徒の乱れが目につきやすく、いわゆる「出来の悪いクラス」と言われていた。あるとき厳しい先生が病気にかかり、しばらく休みをとることになった。すると出来のよかったクラスはあっという間に崩壊、乱れに乱れてしまったらしい。時を同じくして、もう一方の出来の悪いクラスの先生も怪我でしばらく学校を休むはめに・・・みんな出来の悪いクラスがこれからどうなるか心配だったらしいが、出来の悪いクラスは「先生がいない間くらいは先生に迷惑をかけないようにしよう」と一致団結し、すばらしいまとまりを見せたという。
まぁ、よく聞く話だ。

この話に出てくる「厳しい先生」というのは、想像するに見える範囲だけを取り繕うことが多かったのではなかろうか。自分の目が届く範囲でおかしなことが起こらないようチェックの目を光らせる。おかしなことがあれば厳しく注意し、修正させる。そんな感じだったのだろう。その厳しさはそれなりに成果を上げ、表面上はそれなりの評価を得ていた。だが、厳しいチェックの目がなくなった瞬間、タガが外れてしまった。

この厳しい先生に何が不足していたのか。

多分この先生は生徒のためを思って厳しくしていたのではない。自分をよく見せたいため、自分の思うとおりの状態にしたいために生徒を厳しく指導していたのだ。そこには信頼関係などあるはずもなく、存在していたのは力による強制だけだったに違いない。電車の中でぐずる子供をしかる親にもそういう姿勢をよく感じる。子供がぐずる理由を探すこともせず、他の客からの視線を恥じ子供を黙らせようとする。

そういう意識に子供は敏感だ。その言葉が誰のためのものなのか、子共は敏感に察知する。それはいくら言葉で取り繕っても無駄で、直感的にわかるものなのだ。

だが、歳を重ねるにつれ、いつの間にかその感覚はどんどん失われていく。そして知らず知らずのうちに自分の欲望のために人を動かそうとするのが当たり前のようになってしまう。言葉で取り繕えることにだけ長けていき、それが良いことのようにさえ思ってしまう。聞く人が聞けば全て全部ズバッとお見通しなのにね。

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posted by oyajiman at 2012年02月17日 23:00:00



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