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2008年10月13日

こんにゃくゼリー問題で自分の立ち位置を確認する

[うんちくん]
こんにゃくゼリーの話が香ばしかった。今はかなり鎮静化しているように感じるので、そろそろ一言蘊蓄たれておく。

今回のこんにゃくゼリー製造中止に対する意見は、大きく分けて
こんにゃくゼリーの論理破綻 - タケルンバ卿日記

こんにゃくゼリー製造中止は論理的に正しい - 飽きたら消すよ。
という2つに分類されるのでは無いかと思う。簡単に分けちゃえば「こんにゃくゼリー発売中止はおかしい」と「発売中止もやむなし」だ。どちらの意見も納得する面があり、どっちが正しいかはわからない。

さて、なぜどちらの意見にも納得してしまうのだろうか。それはいうまでもない、前提条件が違うからだ。

少々異質な例えとして、企業での経費削減対策で考えてみよう。企業の経費対策で良く聞く話に「紙の使用量を減らす」というやつがある。ただ、紙の使用量なんて、経費額全体からみたらそんなにバカ高いものではないはずだ。大きく経費を削減しようと思ったら、そんなことにしゃかりきになるより額の大きな経費に手を付けた方が効果は出しやすい。

しかし、紙の使用量を削減することに意味が無いのかといえば、そんなことはない。額としては少ないかもしれないが、必ず効果はでるだろう。また、実際の経済的効果の他に、具体的な事例に具体的に取り組む事での意識の変化や広報的な効果などの2次的な効果も見込めるかもしれない。

ここで話をこんにゃくゼリーに戻そう。この件がなぜ問題になったかといえば、現象面からだけ言えば「喉につまらせて死者が出た」ことが発端だ。その解決策は「死者を出さない」ようにすることが大前提である。その「死者を出さない」という前提に、「こんにゃくゼリーで」という条件を付けるのか付けないのかで解決策が変わってくるのは当り前の話だ。もっと極端に言えば「喉に物を詰まらせて死ぬ人」をマクロ的に見るかミクロ的に見るのかの違いでしかない。

それだけの違いで、なぜここまで盛り上がるのか。それはその意見が自分のスタンスを表しているからだ。その説明には、以前理系と文系についてのうんちくで使った図がちょうどいいのでそのまま使ってみる。
image2
この図で、理系を「こんにゃくゼリー発売中止はおかしい派」、文系を「発売中止もやむなし派」としてみよう。自分がどっちの意見にどの程度賛同できるかをこの図にプロットしてみればいい。その位置が、自分がこの問題をどの程度マクロ的に見ているかを表しているのである。もっと突っ込んで考えれば、なぜ自分はそのスタンスなのかを考えてみると面白いかもしれない。

というか、自分がどの色に見えようが、それは自分のかけているメガネのせいなのだよ。わかるかな?わかるよね。自分のメガネは他人と違うことを自覚して他人の意見をを読めば、それはもう「なるほどなぁ」と納得するしかないのだが、それを理解できていない人の意見は、端から見ると思わず( ´,_ゝ`)プッ となってしまう事が多い。声を大にして騒ぐのは、そこに何か意図があるから。自分の利権が絡んでいたりという直接的な意図から、自分の意見を認めてもらいたいという自己顕示欲・自己満足などなどだね。はてブコメとかで良くみるパターンかも知れんね。

なにごともそうだが、人間の決めたルールに「絶対に正しいこと」など存在しない。こんにゃくゼリーの例のように、どの位置の考えを持った人間が多いのか、いや、一番声のデカい奴がいるポジションが一般的には正しいこととされることを忘れちゃいけないと思う。おっと、これは余計な話だな。


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posted by oyajiman at 2008年10月13日 22:30:00



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