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2007年08月12日

素手で便器掃除は宗教じみた行為なのか

[これでいいのか]
( ;^ω^)<へいわぼけ: 素手で便器を掃除する宗教じみた行為が小学校にまで浸透

今はどうか知らないが、ある化学ぞうきんの大手企業の新人研修には、他人の便所掃除をするってのが入っている。その企業の研修目的を短絡的に表現すれば、他人の嫌がる事を進んですることが結果として利益につながるという教育だと言っていいだろう(実際はもっと高尚な意味付けがされている)。

もう少し噛み砕いて言えば、強制的に「嫌なことだと思う自分の固定概念を破らせる」研修で、やってみたら思ったよりたいしたこと無かったと思わせることで疑似成功体験を与え、自分の固定概念を破らせる。実際やってみたらたいしたことなかったという事は案外多い。俺の母親は、子供の頃、素手で牛の糞を片付けさせられたという。人間という生き物は非常に良くできていて、嫌なことをやりつづけると嫌な中にも楽しみを見つけるようになるらしい。母親は「冬とかだとあったかいんだよね」とか「終わった後、手がすべすべになるんだよね」とか嫌なことよりその後のメリットを強調していた。

昔TVCMで、アフリカあたりの原住民が牛の小便で頭を洗う映像が流れたことがある。この映像が与えた衝撃は非常に大きかった。だが、それは彼らにとっては普通の行為なのだ。我々が受けた違和感は、我々と彼らの固定概念からくる意識の差でしかない。この固定概念を打ち破らせて、「出来ない。したくない。」というネガティブな発想から「出来るかもしれない。やってみよう。」というポジティブな発想に変化させることが、この企業の研修の本来の目的なのである。悪い言いかたをすれば「洗脳」、良い言いかたをすれば「意識改革」なのだろうが、このポジティブな意識を植え付け利益を上げていこうというのが魂胆と言ってもいいだろう。そういう目的があっての便所掃除なのに、なぜ美談であるように仕立てるのかよく理解できない。

新しいことに取り組むときに、人間の固定概念が大きな障害となるのは紛れもない事実だ。固定概念を打ち破る事は、自分の殻が出来た人間に有効な事である。しかし、この便所掃除が自分の殻を破らせることを目的としているのであれば、さしたる殻も出来ていない小学生に有効な行為なのかは甚だ疑問である。

これは宗教じみた行為でもなんでもないのである。問題は、そのことを美談に仕立てあげて教育に用いようとしている事だ。これは「水からの伝言」の場合と同じと言ってもいいだろう。

そもそも見返りを求める善行など存在しないのだ。そのことを判っていない奴が多すぎる。



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posted by oyajiman at 2007年08月12日 01:58:47



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